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河合城跡登城日:(2003.01.12) 所在地: 小野市新部町小字構、河合西町城成 |
歴史 |
別名「掘殿城」とも呼ばれ、室町時代の播磨守護職であった赤松氏の東播磨の拠点として築城されています。嘉吉元年(1441)の「嘉吉の乱」の時には、赤松満祐が将軍足利義教の首をもって入城したことでも知られています。東西約四百メートル、南北約三百メートルの城域を有する東播磨屈指の大城郭でしたが、ほ場整備事業等により、その景観は失われています。主郭部は「源氏屋敷」とよばれ、土塁と掘が巡っていました。さらに掘の外側には、東の郭と西の郭があり、三つの郭から構成された平城であったようです。
『河合城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
赤松氏の本城として機能していた大城郭ということでしたのですぐ見つかるかなと思っていたんですが、この河合城攻略は今日で3回目です。今回は堀井城や小堀城と水路でつながっていたという情報を得たところでしたので簡単に見つけることができました。とはいうものの「こんなところにあったのか!」という嬉しさでしばらく感動していました(笑)。 現在は完全に畑や田圃のなかにうもれてしまっていますが縄張りやその規模はよく把握することができるようになっています。訪城される場合はまず堀井城を見つけ、そのあと新部町と河合西町の境界にあたりをつけ、そのあたりの養鶏場跡を示す、大きな餌用のタンクを探せばみつかると思います。現在は土塁跡が現存していますが、3城をつないでいたとされる水路も見ることができるのでそれだけでも結構感動できると思います。 これだけの規模の平城を残していたら近所にえらい迷惑だろうなとは思いますが(笑)、今以上に破壊されずに残していっていただきたいですね。
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