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小堀城跡登城日:(2002.09.16→2010.03.14) 所在地: 小野市河合中町小字小堀 |
歴史 |
小堀城は、中世赤松氏に属した三枝(光枝)氏の居館跡である。加古川に隣接する位置にある大規模な平城で、土塁が当時の規模を物語る状態で現存している。
また当時は加古川の河川交通を抑える重要な役割を果たしていたものと考えられる。 ◆この渡しの名称は、天正六年(1578)、織田信長から播磨平定の命を受けた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、三木別所氏を攻める途中、ここで河合郷新部村の船頭、山田新介らの手を借りていかだで軍勢を渡したことにはじまると伝えられています。これに対する報奨として、秀吉は渡し舟の運行を許可し、賦役の免除の墨付(証文)をも与えています。それ以後、現在の小野市と加東郡社町を結ぶ重要な交通機関として昭和四十年頃まで渡し舟の運行が続けられていました。 『渡し船案内板』より
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資料 |
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私見 |
三枝家は室町時代よりこの地に住み移り、代々小堀城主をつとめました。現在は竹薮、民家、田圃などかなりの部分で破壊されてしまい確認しづらい状況ですが、その規模はかなりの広さです。土塁が現存しているということですが、たしかに部分的に確認できるものもあります。最初は神社と勘違いしていたのですが当サイトをご覧くださった小堀さんのおかげで修正することができました。はじめはその規模がわかりにくいですが、よくよく考えてみるとこの城跡結構広いですね。
2010年3月14日の現地説明会に行ってきました。すっかり綺麗に切り取られた竹藪跡地に残る土塁が見事です。南北に延びたそれは途中で2度高さが変わりますが、どういう意味を持つのでしょうね(聞いていたのですが、忘れました。)説明会の後で土塁に登ったり、南西部の門跡を通ったりと慌ただしく写真を撮ります。この時は特に注意はありませんでしたが、説明会後になって来た人の話では「土塁に登らないよう」注意看板が設置されていたんだそうです。どうも説明会の時だけの特別な措置だったのでしょう。貴重な土塁上からの写真が撮れてよかったです。 説明会の中では、西側だけに残る見事な土塁があることから、従来北西部にあったと考えられていた主郭の位置は実は南西部だったのではないかという見方を検討しておられるようでした。あとは近隣の河合城、堀井城などの位置関係を考え、互いの役割やなぜこの一帯にだけ大きな平地城館が集まっているのかはこれからの研究課題であるということでした。城の規模は分かってもそこからまだまだ考えていかないといけないのは大変なことですね。そうそう、土塁以外の場所に生えてくるたけのこは自由に採っていいんだそうです。史跡保護のため?せっせと採って食べてくださいってことみたいですよ。また、ここのたけのこは「美味しい」らしいです。(^^ ひとしきり西側の土塁を見て回ると、今度は東側に残る土塁も見て回ることにしました。今まで民家があることに遠慮して近くまで行きませんでしたが、ちゃんと道がついてたんですね。おかげ様で城域を想像しやすい形で残る土塁を間近で見ることができました。こちらはかなり削られているのでしょう、残っているものはかなり薄っぺらい状態です。あとこの城には明確にここだと示された井戸がなかったように思います。堀井城が城域内にいくつもの井戸を持っていたことを考えると1つか2つは出てきてもよかったのですが、畑や田圃にする際に破壊されてしまったんでしょうか。これくらいはあの場で聞けばよかった・・、でもまぁ小堀城を再確認できていい機会でした。
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