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光明寺城跡登城日:(2002.08.13)所在地: 加東郡滝野町光明寺 |
歴史 | 観応二年(1351)二月、光明寺で足利尊氏と石塔頼房(足利直義方)が対峙した。そのとき、無文の白旗が風に乗って飛来した。 これは八幡大菩薩のき寄瑞と両軍が旗の行方を見守っていると、尊氏方の高武蔵守師直の陣(鳴尾山)に落ちた。喜んだ師直が甲を脱いで受け止めてみると、二首の歌がかかれていた。 吉野山峯のあらしのはげしさに高きこずえの花ぞちりゆく 限りあれば秋も暮れぬと武蔵野の草はみながら霜かれにけり 人々は「高きこずえの花ぞちりゆく」とは高一族の滅亡を、また「武蔵野の草はみながら霜かれにけり」は師直の任国名を意味し、不吉な歌だと噂しあった。 まもなく寄手は戦に利あらず退陣し、尊氏は弟の直義と和睦したが、師直・師泰兄弟は処刑された。 観応二年(1351)二月、足利直義方の石塔頼房が五千余騎で当山にこもったとき、本堂及びこのあたりに本陣が置かれたと推定される。 往時の光明寺は、本堂の西と南に僧坊が集まり、表参道や仁王堂も南の山腹にあったらしい。そのため、寄手の総大将・足利尊氏は引尾山に陣し、高倉尾から仁王堂を攻めた。 つまりこちらが大手であった。 寄手と城方の愛曽伊勢守が激しく戦ったのも、この仁王堂付近である。 表参道が東坂に移り、仁王門が現在地に建てられたのは、近世初期と思われる。 貞和四年(1348)の吉野焼討ちで南朝を制圧した北朝方で、足利尊氏・直義兄弟の争いが表面化した。いわゆる観応の擾乱である。中国筋平定のため書写山に依った尊氏を討つべく、石塔頼房は五千余騎で光明寺に陣を構え、八幡(京都府)の直義に援軍を求めた。 それと知った尊氏は、援軍の来る前に打ち破ろうと一万騎を率い光明寺を囲んだ。 観応二年(1351)二月四日のことである。 尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山、赤松則祐は八幡山に陣をしいた。仁王堂や東坂で激戦が展開されたが、いずれも寄手が敗れた。両軍の対峙は10日に及んだが、城方の後詰がせまったので寄手は摂津まで陣をひいた。 のち尊氏は直義と和睦し帰京したが高師直・師泰兄弟は摂津の鷲林寺で処刑された。 『光明寺城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
闘龍灘から少し北へいってそこから西へ左折し、住宅地のなかを抜け光明寺のある山への坂道を登っていきます。途中まで車でいくと大きめの駐車場があり、そこからはさらに急な坂道となるため徒歩での登城となります。 「太平記」一色となった案内板ではありますが、ここはその後文明十七年(1485)に態勢を整えた赤松政則が山名氏と戦うべくこの光明寺に陣取って、大いに戦果をあげたのでした。政則は三津田から小田を経て光明寺に着陣すると、そこから発進し、垣屋孝知を討って大勝をしたようです。そしてその後、志方に陣を移しました。 辺り一面を見渡す高所にあり、堅牢な山城として陣を構えやすいこの光明寺は有事にはよくこうした前線基地のように使われることが多かったんでしょうね。 最後に、この光明寺の一番奥までいってみますと、本陣跡の看板に導かれます。看板の先には本陣が復元されているといった演出にお目にかかることができるようになっています。ここまでやられてしまうと賛否両論あるかとは思いますが、私には結構好評価です(笑)。ひとつ☆を増やしてみるかな。
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