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中津構居跡 登城日:(2002.03.04) 所在地: 加古川市加古川町、権現神社 |
歴史 |
播磨鑑(宝暦12年)に
梶原冬庵古城跡 大野郷在中津村 今農家ノ居屋敷ト成 鎌倉権五郎景政ノ末葉 天正年中秀吉ノ為ニ神吉ノ城ニ於テ討死ス とあり、播州古城記には 中津城 中津村 鎌倉権五郎景政の末葉 梶原十右衛門の居城也 天正中神吉式部 貞範に従ひて討死す と記録されている。 ◆権現神社 戦国時代の構居(豪族の館を防御施設にしていたもの)跡で、構守梶原十右衛門(冬庵)は、秀吉の神吉城(東神吉神吉)攻めの時に討死した。敷地内には、天和二年(1682)の銘が記された花崗岩製の灯篭がある。 『中津構居跡案内板』より
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資料 |
私見 |
中津構居の城主であった梶原冬庵は、高砂城主の一族で高砂城を放棄した後で神吉城へ走ったといわれています。三木合戦の最中には神吉城内で討ち死にしたともいわれており、常楽寺には冬庵のお墓がつくられています。 加古川駅から約15分ほど北へ歩いていった川沿いにある神社が中津構居跡です。神社のまわりをぐるりと土塁跡のような土盛りが取り囲んでおり、なんとはなく重々しい雰囲気が出ているのを感じてしまいました。 ここを守っていた梶原冬庵はこの中津構居から加古川を渡河して神吉城へいったのですね。秀吉の大軍を迎え撃つにはこのこじんまりとして背水の陣となる中津よりは川向こうの神吉城のほうが地理的にも多少ましだったってことだったのかもしれませんね。
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