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西宮砲台跡登城日:(2005.12.18) 所在地: 西宮市西波止町 |
歴史 |
幕末動乱の最中アメリカ・ロシアなどの軍艦の来航を見た幕府が摂海(大阪湾)防備のために設けた砲台で、わが国の歴史の転換期を知る得難い証人として国指定の史跡です。着工は文久三年(1863)ですが、幕府が倒れ完成は定かではありません。その後空砲試射に失敗、さらに内部の木造部分を焼失しました。1975,5年にわたって大修理、内部は鉄骨で補強、外壁は築造当時に復原しました。なお今津砲台は、福応神社(今津大東町)に記念石があります。 江戸時代のおわり、国防に不安を感じた江戸幕府は、京都を警護する要地にあたる大阪湾に砲台を築きました。その工事は、文久三年(1863)から慶応二年(1866)まで続き、あしかけ4年間も続きました。 土堤でかこった中央部に、松クイを1000本以上も打ち込んで基礎とし、カコウ岩の大岩を組み上げています。本体には砲眼11個と窓1個が穿たれ、大砲で四方をねらうことができました。実際には使われることなく、明治時代をむかえました。 『西宮砲台跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
阪神電車「香櫨園」駅を南方に夙川沿いを約800メートルほど歩きますと御前浜公園があります。その東端に西宮砲台はあります。マンションと防波堤とで直前までその姿が隠されていますので、いきなり現れたという感動が得られますね。 江戸幕府は大阪湾防備のため、小笠原長行に台場築立御用掛を命じ、戦奉行勝海舟と共に砲台の築造場所の調査を行わせしめました。西宮のほかにすぐ東側には今津、そして和田岬とそれに隣接するように川崎にも砲台を築造しました。その形状は和田岬砲台が稜堡式であるのに対して、他の3砲台は円形となりました。胸墻には土塁が用いられていますが、土塁の前面の下層部には石垣が築かれていたようですね。(『ひょうごの城紀行(下)』参照) 砲台の周りを金網が覆われており、国史跡を守っているのはわかるのですが、その姿はあまりにも無粋だなぁと感じます。そういえばここで野球やゴルフ練習を禁止しているのは砲台に誤ってあたることを危惧してのことだったのかもしれませんね。(でもやってる人がいたけど・・)
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