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野間山城跡 登城日:(2002.08.14) 所在地: 多可郡八千代町中野間 |
歴史 |
この山城は野間城の「詰の城」であり、最初は南北朝時代に築かれた。
その後、在田氏が野間に本拠地を移してから改修されて今の形になっている。 山城は鶴が翼を広げた姿に似ているので「鶴琳城」とも呼ばれており、山上に建物はなく非常時に立て篭もる城で一部に石垣が残っている。 赤松氏の流れをくむ在田氏がこの野間山城に拠を移したのは、五代目村長である。 大永元年(1521)に浦上村宗が置塩城城主の赤松義村を暗殺した。この村宗に反対勢力らとなった者は義村の子才松丸(後の晴政)を担ぎ上げ、復讐戦を挑むことになった。野間山城の在田村長もこの反対勢力であった。 浦上村宗は赤松播磨守の子を擁立して、野間山城を攻めさせたが、逆に返り討ちにあってしまい命を落としてしまう。やがて村宗が直接攻撃を野間山城に仕掛け、落城させることに成功する。が、それも長くは続かず、村宗の死により野間山城は再び在田氏に戻すことができた。 天正三年(1575)になって、後に但馬八木城城主となった別所重棟に攻められて落城、以後は別所氏の治めるところとなり廃城となったようである。
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資料 |
私見 |
前日は隣接する光竜寺山城で力尽きたのですが、懲りずに2日続けて八千代町の山城攻めにやってきました。野間山城の登城口は2本あるようですが、俵田へかかる橋の手前に細いですが、整備された道があるほうから登っていきました。「まむし注意」という看板があって真剣に帰ろうかと考えたのですが、目の前に続く登城道を見てますともういてもたってもいられなくなり(笑)、気が付いたら駆け上っていました。 光竜寺山城同様に整備の手が入っており、非常に登りやすかったんですが此方側には一切標識や看板がなく、なるべく自然のまま保存しているといった地元の方の配慮がうかがえました。 前日とは比べものにならないほどの距離を感じつつ登っていきます。この野間山城は尾根づたいに広がる連郭式となっていました。要所要所にある石垣が実にすばらしいです。またそれぞれの郭に上がるとまた降りて次の郭へと、という構造がほんとしんどかったです。「まだ先があるの?」「え、まだ続くの?」というほど延々と続いているような構造が今まで感じたことのない山城であることを実感しました。また、途中に堀切もありましたし攻めるに難しい城であったこと、またそれらが実に見事に保存されていること、感動です。 最後まで「本丸跡」の看板さえない、景観重視な(?)扱いの状態の野間山城には久々に感動させてもらいました。少し甘いかもしれないけど☆1つ多めで、かな。
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