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八木城跡
登城日:(2001.05.05)
所在地: 八鹿郡八鹿町八木
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
八木城跡登城道  この城山の頂上には室町から安土桃山時代にかけての城跡があり(八木城跡)、昔から養父郡内における政治的な中心地として利用されてきました。
 近代になってからは、燃料(アベマキ・コナラ)や木竹材(スギ・ヒノキ・モウソウチク)として利用するための造林・育林が続けられ、現在見られるような森の姿となっています。このほかにも、高級家具に使われるケヤキ、漢方薬の原料となるキハダ、紅葉の美しいイロハモミジなども見られ、地域の人たちがいろいろな目的のために木を植えていたことが、よくわかります。

 八木町の背後にある西から東にのびる細い尾根上には、八木城と八木土城の2つの山城があり、南北朝時代(1333〜1392)のはじまりという。
 八木城は、標高330メートルの城山に作られた山城で、南北260mとウザ井340mに広がる大規模なものである。本丸には、山石を荒割りした石材で9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、文禄年間(1592〜1596)の構築と推定される穴太流の城郭石垣を作っている。さらに本丸には天守台や矢倉台、石塁を築いており優れた技術をみることができる。
 縄張りをみると、尾根を平坦にした曲輪を作り、東に6段、南に5段、北に3段というように山全体に城郭を配置している。
 八木城は、戦国時代の八木氏の本城であり、また別所氏が改修した豊臣時代の城郭である。八木城は、1万5千石の八木藩の貴重なシンボルであり、八木町は初期城下町として貴重な町並みを伝えている。

険しい登城道 ◆三の丸
 豊臣時代の城主は大名の別所重棟・吉治の父子で養父郡内で一万五千石を治めました。

◆本丸
 本丸の南側には高さ9.3mの高石垣があります。穴太流石垣で1592年前後に積まれたものです。

◆八木城の概要
 鎌倉時代初期八鹿町朝倉に住し豪勇世に聞こえた朝倉高清がこの西方の峯に築かれていた土城の城主閉伊十郎行光と戦い勝利をした後三男重清を初代城主に置いたのが八木城の始まりといわれます。
 以来豊信まで十五代およそ400年にわたり一大勢力を保持しました。
 南北朝時代関東から但馬に入り出石を本拠として全国にその名を覇せた山名氏の傘下に入り代々山名四天王の一人として重きをなしました。
 戦国時代織田信長の命を受け中国の毛利攻略に向かった羽柴秀吉は姫路城を拠点として先ず毛利勢の及ぶ播磨・但馬を平定しましたが、八木城も武運つたなく落城しました。
 時天正八年(1580)三月であったといわれます。十五代豊信を最後に八木城はここで終わりを告げました。天正十三年(1585)秀吉の配下であった別所重棟が新たに八木城に入り、子吉治の二代わずか十五年の間在城しました。
 慶長五年(1600)関ヶ原の戦いに西軍に属した吉治は敗戦で所領を没収されましたが徳川家に仕える春日の局が伯母にあたるよしみをもって許され翌年佐渡の比由良城へ移封されました。
 それ以来八木城は廃城となり四百年にわたる長い歴史に幕を下ろしました。
 なお、八木氏は廃城後徳川家に仕えました。

『八木城跡案内板』より

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資料
 

私見
本丸跡  ふと9号線を走っていて「おや、八木城跡の看板が綺麗になってるぞ、ん道も舗装されている!」ということに気がついて急遽国指定史跡である八木城跡を攻略することにきめました。もっとも道が舗装されていたのは城とは関係のないところだったので路駐するよりほかはなかったのですが・・。
 いざ登城と決めこんだはいいものの、麓にある案内板を見てビビってしまいました。城跡まで1Kmって・・。なかなか攻め応えのある城であることはすぐに理解できました。しかしこんなことでくじけていられませんので迷わず登城道を登っていきました。私が選んだ登城道は下八木コースです。
 最初はあぜ道のようなものだったのですが、すぐに山道になりました。綺麗に整備されているので草をかきわけたり、道に迷うといったことはないのですが、この登城道はんぱじゃないです。すごい傾斜です。いつもは軽快にかけあがっている私ですが、今日はゆっくりと少し休みつつ登っていきます。この傾斜が1キロも続くかと思うと「とんでもないとこ」に来たなぁという気になります。
本丸南側の石垣です。 草で分かりにくいですが本丸の石垣  4百メートルほどいくと途中にあずまやがあるのですが、ここは休憩なしにそのまま素通りです。やがて8百メートルほどくると看板があり『秋葉さん』となっています。ん?地名なのか?それとも秋葉さんの土地だってこと?う〜ん・・ちょっと悩みましたがすぐに忘れて三の丸から二の丸、そして本丸へ。
 この八木城、細長い山の尾根伝いに城が作られているのでとっても細長い作りになっています。だから余計しんどいのですが。ほとんど1本道の状態の登城道なのですが、両脇ががけであったり、竪堀がつくってあったりと当時の攻め手の困難さがよくわかります。
 やがて本丸にたどり着くと今までとはうってかわって大きく広がる石垣の見事さに目を奪われてしまいました。約9mほどの高石垣が本丸のまわりをぐるりと取り囲み、今なお頑丈に防備しているといった印象を受けます。苦労してここまでたどりついた甲斐があったというのはほんと実感しましたよ。
 ところでこの八木城、この石垣がある城とは別にさらに奥に土塁でかためられた城、通称八木土城があるのですが、今回はあっさり見送りしました。とても体力が残ってなかったもんで・・・。
 またここにくる可能性は非常に低いですが、今度来たときはそちらにも足を伸ばしたいものです。
 結局再訪が3年後となってしまいました。しかも暑い盛りの8月に(^^;。八木土城にも足を伸ばせましたが、予想以上のいい土塁だっただけに下草が生え揃ってる季節に来たことを後悔しました。また行かねば・・今度は何年後?(笑)
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