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八木土城跡
登城日:(2004.08.08)
所在地: 養父市八鹿町八木
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
土塁がよくのこる土城  八木土城は、平安末期の康平六年(1063)頃に閉伊四郎頼国がこの地を与えられた時に築城されたという説がある。その後鎌倉初頭の建久五年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国朝倉(八木の東隣の国)を与えられ城を築いたが、領有権をめぐって閉伊氏と朝倉氏が対立し閉伊氏が滅ぼされる。そして高清の次男重清が八木庄に入り八木安高と名乗り、八木庄に館を築いた。その屋敷跡が国指定史跡でもある「殿屋敷跡」である。以後約360年間、豊臣秀吉の但馬攻めまでの間、八木氏が居城することになる。
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資料
城主関連年表
承久 3(1221) 八木安高 朝倉高清の子。八木を分け与えられ、八木氏を興す。八木殿屋敷に館を構える。承久の乱で鎌倉幕府に見方して興隆。
建長 2(1250) 八木高吉 八木三郎と名乗る。吾妻鏡にあり。
正嘉 2(1257) 常光寺に仁王像が建立される。
建政 元(1275) 八木家高 二郎と名乗る。
京都八幡宮造営にあたり、五貫寄進。
弘安 8(1285) 八木泰家 又次郎と名乗る。八木庄(61町)の地頭。
  八木重家 弥二郎と名乗る。法名・覚恵。初めて築城という。
  八木家直 孫二郎と名乗る。
  八木高重 法名・蓮阿。
  八木直重 法名・常光寺殿宗栄。
  八木重秀 法名・宝林院殿道彗。
  八木頼秀 法名・臨川院殿宗林。
  八木重頼 法名・曹源院殿宗材。
寛正 6(1465) 八木頼秀 将軍の大原野花見に山名宗全を補佐として出席。
文明 5(1473) 山名宗全死去。山名教豊の重臣となる。
文明12(1480) 但馬守護代となるもよう。
文明15(1483) 八木在住。伊勢貞宗から太刀光正贈られる。
文明16(1484) 播磨野口の合戦に出陣して奮闘。子の聖芳を常光寺の住職とする。法名・大樹院殿長川宗久。花八重立老翁。
明応 6(1497) 八木貞直 小佐郷内の田地一反を妙見社に寄進。
永正 元(1503) 西方寺の宝篋印塔が建立される。法名・済川院殿宗森
天文15(1546) 八木直信 宗頼の子宗世の33回忌を宗世寺で行う。
弘治 3(1557) 八木豊信 小佐郷内の田地を妙見社に寄進。法名・惰琳孺院宗松。
元亀 元(1570) 織田信長は豊信ら但馬勢の四天王に書状。
元亀 4(1573) 浅間寺に日光・月光像等を寄進。
天正 2(1574) 豊信が浅間寺薬師寺を建立する。
天正 5(1577) 羽柴秀長等の第一但馬攻めで降参。
天正 7(1579) 吉川元春が八木城と竹田城を毛利方の拠点と見る。
天正 8(1580) 第二次但馬攻め。八木城から鳥取若桜城に転身。

『城下町八木散策絵地図』より参照


私見
主郭手前の外枡形虎口  すでに八木城の本丸に到着した頃には汗だくになっていました。が、ここで引き換えすわけにはいかないでしょう、ってことでそのまま奥へと進みました。私にとってはここからが未踏の地でした。
 土城跡は八木城から200メートルほど尾根を奥に登ったところにあります。階段のように細長く連続して曲輪が作られています。草が足首あたりまで伸びていますので判別しにくいのですが、下八木登山口に置かれた資料によりますと15の曲輪があるようです。土塁の残存状況や地形の妙を楽しむこの土城を、なんでこんな季節に来ているんでしょうか(笑)。ひたすら細長い城域を進んでいきます。が、それでも土塁はよく残っているのはわかります。特に顕著に残っているのが主郭手前のもので、枡形を形成しています。これが外枡形虎口なんでしょう。八木城を築城した後でもこの土城も詰の丸として利用していたんだという証といわれているんですね。  もしこの城へ行こうと考えられている方がいらっしゃれば、夏場は避けることを強くお奨めします。土塁鑑賞がもったいないです、ほんと。(^^;
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