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野瀬城跡


登城日:(2006.03.05)
所在地: 神戸市北区淡河町野瀬
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
街道筋からみた野瀬城跡  野瀬城がいつ頃築城されたのかは不明である。嘉吉の乱の時、城主であった野瀬氏は山名勢が有馬郡から淡河の谷へと攻め込んだ際に落城し滅亡してしまったようである。
 後の天正六年(1578)十二月十日、播磨攻めの為に進軍してきていた羽柴秀吉勢が野瀬城に攻めかかった。城主は淡河城主淡河弾正忠定範の弟新三郎長範だったが、かろうじて淡河城に逃げ延びたようである。当時の記録として国次小次郎猛紀の名が残っている。

『郷土の城ものがたり・東播編』兵庫県学校厚生会刊参照

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資料
 

私見
ここが古井戸を埋めたところでしょうか?天保の年号が見えますが・・  野瀬城跡には何度か足を運んで調べておりましたがようやくわかりました。場所は県道38号三木三田線「野瀬」の信号南西に位置する民家一帯がその跡地です。昔から”城(シロ)”と呼んでいたという話をうかがうことができました。
 南側は急斜面と川が堀の役割を果たしていますが、北側からはまったく防御ができないような地形です。ちょうど嘉吉の乱のときは石峯寺方面からの攻撃を受けたようですが、ひとたまりもなかったんじゃないでしょうか。また天正の羽柴勢に攻撃の際には淡河城の東約5キロに位置する支城としてどれだけ持ちこたえられたのでしょうか。城域が県道の南側のみならば街道をそのまま突き進まれてしまう気がして、なんとも心もとないものだった気がして仕方がありません。
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