Check |
奥野将監屋敷跡 登城日:(2003.10.19) 所在地: 加西市下道山町、磯崎神社脇 |
歴史 |
元禄十四年(1701)、江戸城本丸「松之廊下」にて赤穂城主浅野内匠頭長矩が高家筆頭吉良上野介義央に切りかかった。世に言う松之廊下事件である。時の将軍5代綱吉は内匠頭の切腹と浅野家の取り潰しを命じた。
大石内蔵助ら内匠頭の家臣は、浅野家再興と吉良の処分を嘆願したがその願いも空しく内匠頭の弟、大学長広が浅野本家広島へお預けとなったことにより赤穂浅野家の再興は露と消えうせることとなった。 行き場のない怒りを吉良への討ち入りへと燃え上がらせる内蔵助らは京都円山で会議を開き、討ち入りを決定させた(元禄十五年、1702)。 討ち入りへの決意の最終確認として、内蔵助は各々に『神文返し』を行った。つまり、赤穂城明渡しの際に集めた血判を全員に返したのである。討ち入る覚悟があるのなら、この仕打ちに憤慨するはず、ということである。しかし、最終的には脱盟する者もおり、その中でも内蔵助の右腕的な立場であった奥野将監もその一人であった。
|
資料 |
私見 |
ここまで城跡の中にカウントしていいものやら考えていたんですが、日本城郭体系では台場だってカウントしてることですし、いいことにします。(^^; ということで、加西市西北部に位置する磯崎神社脇に奥野将監が晩年を過ごしたという屋敷跡がありました。神社前には大きな看板が立っていますのでずいぶんと立派なものを想像させてくれます。参道をまっすぐ進み、やがて民家の庭前を通るようにして右折、田圃道を10メートルほど進むと左脇に屋敷跡を示す標柱と墓石がありました。その一帯の周囲だけが幅10数センチほどの溝が出来ており、形状がよくわかるようになっています。 忠義を尽くさずに裏切り者としての人生を選択した奥野将監はこの寂れた山中で何を考えていたんでしょうか。 なお、屋敷そばには「ウエ門田」と呼ばれる将監が開墾した田畑があったそうです。また、将監の墓は多可郡中町内の稲荷神社裏の墓地に収められているそうです。
|