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滝山城

滝山城跡


登城日:(2005.06.12)
所在地: 神戸市中央区葺合町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
斜面に残るは石垣の跡か? 土塁がうねっていますね  滝山城がいつ築城されたのかは、はっきりしない。最も古い記録は正慶二年(1333)の『正慶乱離志』であり、赤松円心則正が護良親王の令旨をうけて挙兵した時のことが記されている。
 このように滝山城は鎌倉末には存在していたようで、西方の再度山城、東方の摩耶山城を両翼におき、海辺に近く大阪湾を往来するあらゆる舟を監視できたこの城は戦略上ふたつとない拠点であり、南北朝の動乱期から戦国時代に至るまで、再三戦火の舞台となっている。戦国時代末期には織田信長の摂津進行に伴い、摂津守護となった荒木村重の領有するところとなったが、荒木村重の謀反により、天正七年(1579)信長の武将によって攻略され、石垣などは兵庫城築城の用材として運び去られたと言われている。
 こうして滝山城は約250年の長きにわたる歴史をとじたのであった。
巨大な堀切りが口を開けてます そして土塁もよく残っています  滝山城は案内板にあるように鎌倉期より存在していた。その後も度重なる戦火にまみえる。文明年間(1469−87)には赤松政則の家臣、井上四郎左衛門成蔭が居城した。享禄元年(1528)には赤松氏一族の上月伊予守が入ったが、細川高国に属したために細川晴元の家臣柳本賢治に攻められ落城した。
 弘治二年(1555−58)には三好長慶の家臣松永久秀が修理改築して入城した。永禄七年(1564)に、長慶の死後その専横ぶりのために三好三人衆、三木別所衆らに攻められ落城。水の手を押さえられた為久秀は退城し、かわりに篠原長房が入った。
 永禄十一年(1568)、織田信長の軍の前に城を捨てて逃げ去った長房の後に荒木村重がこの城を与えられたが、花熊城を荒木志摩守が入ったことで、滝山城は花熊城の付城として池田泰長が入った。
 天正六年(1578)に村重が信長に背くと、翌七年信長の猛攻の前に花隈城、滝山城は落城した。同九年、兵庫城が築城されると石材の多くはそれに利用されてしまった。

『滝山城跡案内板』、『日本城郭体系12』新人物往来社刊参照

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資料 【地図を表示する】
 

私見
本丸櫓台にたつ石碑  滝山城は山陽新幹線「新神戸」駅裏にある登城口から登っていくことになります。多くのハイカーが行き交う県内でも有名なハイキングコースが城域を通っています。登城口自体はややコースと外れていますから「そこは狭いよ」と注意されてしまう始末(笑)。
 登城道はそこそこ急な傾斜ですがしっかりと道がついているので楽勝です。城跡は大きく分けると南東へと伸びる尾根が二つあり、それぞれに郭が大小30ほどが形成して繋がっています。逆コの字型でしょうか。城には兵庫城築城の際に残された石垣もあるとか、これは楽しみな城攻めになりそうです。
 早速、東側の郭にとりつきました。竪堀が大きくえぐられていますが脇にあるのが竪土塁だったんですね。そしてその先には細長いものを含め、五段ほどの郭が続きます。ふと見ると東側斜面には石垣跡か?はやる気持ちで斜面を滑り降ります(笑)。その先には東側尾根ピークとなる東曲輪群の最高所となります。
 東曲輪を過ぎると、本丸にいたるまでの地形は非常に複雑で実に面白いです。大きな堀底を歩かされるかと思えば背の高い土塁が目の前をさえぎります。北側は竪堀と、そして石垣の跡が急斜面に残ります。体調が悪いのでおとなしくしてようと思ってましたがすっかり忘れてはしゃいでしまいました。
城の位置を聞かれたところです  そして中央の郭群へと向かいます。東側とは比較にならないほどくっきりと段差がついた削平が広がっており、本丸の南側には4段の小さな郭が続いています。そこにも土塁がまわっている周到ぶりには驚きました。また、ここがおそらく一番神戸を見下ろすことができる場所になると思います。遠くを行き交う船が今までの城域の景色を忘れさせてしまうほどのギャップですね。
 本丸西部には櫓台がありそこには城址碑があります。ここでしばしランチ休憩です。見晴らしがよくないのが惜しいですね。
 そして西側郭群へとさらに進みます。本丸からの斜面を下りている途中でその見事な存在に釘付けとなります。大きな堀切です。しかも二重となっており土橋がつくられています。堀切の見事さとはうってかわってその先の郭は削平があまく、少し時代が古いものなのかな?と感じました。
 ほとんどは下草がなく夏場でも登城可能な山城だとわかりましたが、東側曲輪が草に覆われていますので季節を選んでもう一度来たいところです。ちょうど東曲輪をすぎて堀底を歩いていたとき、ハイカーから「お城はどこですか?」と聞かれました。もちろんこういった時の空気は心得ておりますので、「その100メートル弱ほど先の石碑が立っているところですよ」と教えてあげました。まさかここら一帯500メートルほどがお城だったなんてことや土塁や竪堀なんてことも口にしません。人によって様々ですからね、”お城”って。
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