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渡瀬城跡
登城日:(2002.06.15)
所在地: 美嚢郡吉川町渡瀬、県立吉川高校
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
渡瀬城跡である吉川高校  渡瀬城は佐々木源十郎義範が守護職として文治元年(1185)十一月にこの地に移り住んだのがはじまりといわれている。義範はこの地名をとって渡瀬氏を名乗るようになり、その六代右衛門尉従五位下綱光が明徳二年(1391)の明徳の役の際、赤松義則や別所敦則らとともに山名氏清を攻めたて功をたてた。それにより将軍足利義満から摂津・播磨の二万石を賜り、この地に渡瀬城を築いた。
 中世平山城として天険を誇った堅城であった渡瀬城は、代々渡瀬氏が治めていたが、天正六年(1576)の羽柴秀吉の播磨攻めによってまわりの状況が一変した。
 三月、秀吉が加古川の糟屋武則の館に入った時、当地方の領主であった別所長治が毛利に通じて籠城を決したため、渡瀬好光もそれに従い渡瀬城の防護を固めた。
 が、多勢に無勢で、渡瀬城は三木城が落城する前に激戦の末、落城。好光は自ら城に火を放って縁家である伊丹城の荒木村重を頼って、落ち延びていった。

三木市教育委員会刊『別所氏と三木合戦』参照

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資料
 

私見
渡瀬城跡である吉川高校  以前から何度も来てました。がどう見ても城跡には思えず写真に収める気がしなかった(笑)んですが、これだけいろいろまわってますとここ以上に城跡らしくないところなんていくらでもあったなぁとマヒしてしまい、ようやく渡瀬城を攻略したことにします(笑)。
 城跡とされてます吉川高校は高台の上に建てられていて、北側になる正門のすぐ下は急な崖(崖といっても2〜3mほど)になっています。あまりいろいろ見てまわれないのが学校という城跡の悲しさ(笑)ですね。
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