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水戸城跡
登城日:(2003.03.15)
所在地: 水戸市三の丸
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 水戸一高と三高との間の深い堀跡  水戸城は、建久四年(1193)、源頼朝から地頭馬場資幹がこの地を賜り、大掾に任ぜられたのに始まる。以後、馬場大掾(だいじょう)氏は九代約240年間、下の丸(現水戸一高運動場)の辺りに居館を構えた。次いで那珂通辰の子孫、河和田城主江戸通房が大掾満幹の留守に水戸城を占拠。それ以来七代、165年間、江戸氏が支配した。当時は内城、宿城と浄光寺の三つの曲輪より成っていた。
 天正十八年(1590)太田城の佐竹義宣が江戸氏を討伐、本拠とした。佐竹氏の時代は、慶長七年(1602)義宣の秋田移封まで僅かに十三年、この間内城を古実城(こみじょう)と称して本丸化し、宿城を二の丸(現水戸三高・水戸二中・茨大附属小)とするなど曲輪を整えた。城の出入り口も東側から西側に移し、橋詰門を建て、また二の丸に大手門などを造った。
 十七世紀初め、甲府の武田信吉や徳川頼宣が一時封ぜられたが、慶長十四年(1609)家康の十一子頼房が城主となり、その後、徳川氏は江戸定府ながら光圀、斉昭を経て昭武まで約260年間、三十五万石の水戸領を治めた。明治四年(1871)廃城。徳川期の本丸には兵器庫、二の丸には三階櫓があった。
 水戸一高の前身茨城県尋常中学校がこの地、本丸の城址に新築、移転したのは明治二十九年(1896)九月、後に水戸中学校となり、昭和二十年(1945)空襲で全焼、同二十三年に現在の水戸第一高校となる。空堀と土塁の一部と復元された橋詰門が城址の名残りをとどめている。
水戸一高内にある薬医門 ◆旧水戸城薬医門 一棟
 この城門は、旧水戸城の現存するただ一つの建造物で、形式は正面の柱の間が三つ、出入口は中央だけの三間一戸の薬医門、二つの脇扉がついている。
 薬医門とは、扉を支えている本柱とその後にある柱(控柱)で支えられた屋根の棟の位置を中心からずらす形式で、側面の姿は対称形ではない。正面から見ると軒が深いため門はゆったりとして威厳があり、大名の城門にふさわしいので、多くつくられた。
 建立の時期は、構造や技法からみて安土・桃山期と推定される。建物の各部分に用いてある木材の大きさの割合すなわち木割は太く、屋根面の相交わる部分に用いてある。木材(棟木)は見えるようになている化粧棟木で、棟木を支えるとともに装飾となっている板墓股は雄大、また化粧垂木の端の反り増しの技法、柱の上にあって軒桁を支えている横木(実肘木)やえぐって曲面にした板墓股の部分(繰形)の形状などからみると、おそらく佐竹氏の時代(1591〜1602)に創建され、徳川氏に引き継がれたものといえよう。
 城門のあった位置には諸説があるが、城門の風格からみて橋詰御門、すなわち本丸の表門と考えられる。永らく城外に移されていたが、昭和四十五年四月十七日、水戸市指定建造物となる。昭和五十六年九月、この城門にふさわしい旧本丸の入口に近いこの場所に移築、復元した。その際部分補修をするとともに切妻造の屋根をまとめ茅葺にかえて銅板葺とした。
大手跡には見事な土塁が残っています。 ◆水戸城跡(塁及び濠)
 水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾資幹がこの地(現水戸一高)に館を構えたことにはじまり、後に常陸大掾となって府中(現石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏のほかに吉田氏、石川氏など大掾氏の族が栄えたものである。
 十五世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学附属小、水戸二中、水戸三高)を築くなど、城郭を拡張して約百六十余年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸北半を領した源氏の族佐竹氏は、天正十八年(1590)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城占拠した。こうして五十四万余石を領する佐竹義宣の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成と結んで家康に抗したため、慶長七年(1602)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か十三年で水戸を去った。その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられたが、慶長十四年(1609)に第十一子頼房が藩主(二十五万石、第三代綱條の時から三十五万石)となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁をめぐらして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第二代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。

『水戸城跡案内板』より

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資料  

私見 好文亭と偕楽園  3月はちょうど梅で有名な偕楽園がにぎあう季節です。常磐線に乗り、偕楽園と水戸城のセットで水戸市を訪れました。
 臨時で開かれています偕楽園前の駅で降り、まわりを散策。露店が通りを埋め尽くし、すでにお祭り気分真っ只中です。人波をかきわけ、偕楽園へ。
 私が訪れましたこの日は梅は八分咲きということでしたが、有名な梅を目の前にすることができ、大満足です。
 意外にも時間をとってしまった偕楽園を後にして、一駅電車に揺られ水戸駅に到着。北口に出ますと水戸のご老公の銅像が歓迎してくれました。そこからまずは薬医門のある水戸一高へ。
 かなり高い台地上にあったと思われる水戸城は今や高校1つ、中学校1つ、小学校1つの学問のテーマパーク(笑)と化しているようでした。なにより驚かされましたのは一高と三高の間の底深い堀跡です。おそらく自然の地形をうまく利用したんだとは思いますがめちゃめちゃ深いですね。今は底にJRが走っています。
 そこから薬医門を見て、まっすぐ大手へと向きを変えて直進します。そこには城址碑と道路両脇には3〜4mほどの高さの土塁があり、また大手橋の向こうには藩校弘道館があります。
 あまりゆっくりできませんでしたが、やたらと学校が多いところだなぁという印象が一番強かったのがちょっと悔しい気もします(笑)。
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