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小幡城跡登城日:(2010.05.28) 所在地: 東茨城郡茨城町小幡 |
歴史 |
小幡城は、大掾詮幹の三男義幹が室町時代(1420年頃)に築いたという説と、小田知重が鎌倉時代(1220年頃)に築いたという二説がある。 戦国時代の文明年間(1481年頃)以後は、水戸城の江戸氏の影響下に入る。 現在の城域約12ヘクタールが整備されたのは、元亀〜天正年間(1570年代)と思われ、府中城の大掾氏を攻める拠点として重要な役割をはたしている。 安土・桃山時代の天正十三年(1585)の書状には小幡城将として大塚弥三郎と小幡孫二郎の名が見える。このころ城の守りを強化するため、涸沼周辺の土豪が当番制で動員されている。 天正十八年(1590)十二月、豊臣秀吉の権力を背景にした太田城(常陸太田市)の佐竹義宣により、水戸城の江戸氏は城を奪われ、府中城の大掾氏は滅亡、この時小幡城も落城した。 その後、小幡は佐竹氏の秋田移封(慶長七年・1602)まで佐竹義宣の直轄地となり、家臣の和田昭為が管理している。小幡城は天正十八年の落城、あるいは佐竹氏の移封の時に、数百年にわたる歴史的役割を終えたと考えられる。 ◆小幡城本丸跡とその外郭 まわりを五つの大きな郭でかこまれた、この場所が小幡城の本丸跡である。「本丸」と「二の郭」は、城主および重臣の居住地と思われる。 本丸への現在の入口は、防御面からみて不自然であり、当時は、もっと東よりの所から跳ね橋などでつながっていたのであろう。 「七の郭」は家臣などの居住地で、現在「土の門」と呼ばれている所は、当時の「大手門」にあたる。小幡城対岸の東南の台地にも、土塁でかこまれた区域があり、城と密接な関係が想像できる。 城の鎮護のため、東北の鬼門の方角には香取神社を、また城内「四の郭」の南かどには稲荷神社を祭っている。 ◆本丸井戸跡 現在、城内では二つの井戸が確認されている。一つは七の郭南かど堀底道の先端にある。もう一つがこの井戸跡である。 本丸の井戸跡には、小幡城落城のとき、お姫様が金の鳥をかかえて井戸に身投げしたという悲しい言い伝えが残っている。 『小幡城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
すごいとは聞いていましたが、この小幡城はほんとにすごいですね。遺構の現存状況といい、それ以上に深い空壕がうねうねと折れを持っていたり土塁が突出していたりといった縄張りにただ圧倒されるばかりです。ここはあまり文章で書かずに「とりあえず行ってみてください」としたくなるお城です。手抜きじゃなく・・(笑)。ちょっと気になったのは駐車場側から少し入ったところに土塁が削られているところ、後で壊されたのだと思いますが、いつ頃のものなのでしょうね。ただ子供用のスコップが落ちていましたが(^^;。 また、城から南東方面へ少し行ったところにある山崎土塁と呼ばれるL字型の土塁は小幡城に関連する遺構なのでしょうか。独立して存在しているので想像しにくいですが、こちらも見事に残っています。また北側には前新堀遺跡と呼ばれる堀が残っており、こちらも城との関連性が気になります。地図を片手に周辺の様子にも目を配ってみると見えている遺構だけではなく、規模の大きな要塞のように感じてくるのは私だけでしょうか。
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