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神奈川台場跡登城日:(2006.03.08) 所在地: 横浜市神奈川区神奈川1丁目 |
歴史 |
安政六年(1859)五月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。 当時の台場は総面積二万六千余平方メートル(約八千坪)の海に突き出た扇形で、約七万両の費用と工期約一年を要し、萬延元年(1860)六月竣工した。 明治三十二年二月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正十年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。 『神奈川台場跡案内板』より ペリー来航以降、安政元年(1854)に和親条約、さらに安政五年(1858)には各国と修好条約を締結したことにより日本は横浜、函館、長崎、新潟、神戸を開港することとなった。そこで江戸湾内を航行する船舶の監視役として神奈川台場が築造されることとなった。担当となった伊予松山藩の松平勝成はさきに築造された品川台場の構造が不十分である風評を受けて、より一層堅固な台場の築造が必要であるとして並木町、及び漁師町沖に2基の台場を築造することを決定し、漁師町沖の台場に関しては勝海舟に一任したのであった。 神奈川台場の構造は三つの稜堡を海上に鋭角状にもつ半星形状で、陸地とは2本の土橋によって結ばれる縄張りであった。またこの土橋は台場と陸地間を囲む舟溜りとしても活用することができる構造であった。 『幕末海防史の研究』名著出版刊参照
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資料 |
私見 |
絵図で見てもすごい要塞だなと単純に見とれてしまう神奈川台場ですが、現在はものすごく寂しい状態にあります。復元天守はありますが復元台場ってのもあっていいんじゃないでしょうか。それくらいのインパクトがありますね。とりあえずトレースしてみました。 台場跡へは京急「東神奈川」駅を降りて海側へと歩いていけばいいのですが、「中央市場入口」信号を南下、1つ目の信号を左折し橋を渡ります。次に2つめの筋を右折した突き当たりに石碑と石垣を確認することができるようになります。民家の間の狭い路地を入っていくのでやましいことしている気分になりますね(笑)。石垣が残る形状を追いかけていきながら左へと回り込んでいくと広場のようなところに出ました。ここにも案内板が設置されていますのでひょっとしたら土橋と舟溜りがあったところなのかもしれません。
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