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小机城跡
登城日:(2001.04.27)
所在地: 横浜市港北区小机町
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 小机城縄張り  築城の年代は明らかではありませんが、おそらくこのあたりが開けた十二世紀以降ではないかと思われます。その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方には、その支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。
 その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城にたてこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ子橋付近)に帯陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。
 城は文明十年(1489)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、四十余年間廃城となっていました。
 大永四年(1524)一族の北条氏尭の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました。
 小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は以後軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになります。
 豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が亡び、四代目城主の弥次兵衛重政が徳川家の家臣として二百名の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。

空堀跡 ◆小机城の縄張り
 半島形の突出た丘陵の上部を大きく平に削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。
 また、城郭全体を二重の土塁を空掘でぐるりとめぐらす縄張で後北条氏特有の築城法と言えます。
 類例より後北条、後半の築城方式で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県下では、茅ヶ崎城も典型といえます。

◆縄張りと曲輪について
 縄張りとは、目的が定まった地が決定した後、門の開き方、水の便などを定めることであります。
 この地取と縄張を総称して「城取」といい、城取は武士が行いました。
 曲輪とは城を構成する区画、すなわち削平された地、それぞれ防備地帯、兵営の場、館の立地される場をいいます。

右井楼跡、周りを土塁が囲んでいます ◆空掘
 本丸跡の防備と敵の攻撃に対抗するための堀で、この城址では、堀上部の幅12.7メートル、堀底の幅5メートル、深さ12メートルからなる水のはらない空堀です。
 空堀の堀幅や深さはまちまちですが、調査によると中世の山城は3メートル、平城は9メートルから12メートルがその平均の堀幅になっています。

『小机城跡案内板』より

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資料  

私見 空堀跡の堀底道  深い空堀が城全体を蔽ってるかのような錯覚を覚えさせるこの小机城は、十三人の地元の方の私有地からなっています。ここまで綺麗に保存していただいている地元の方に感謝したいです。それほどここの空堀は見事なものです。木杭が張り巡らされて整備された遊歩道も多くが堀底道となっています。数メートルの高さを誇る空堀の底を歩くのは感じたことがないほどの臨場感がありました。いつうえから何か降ってくるのではないかという不安さえ感じてしまいます。
 堀で感動したのは山中城以来かも知れません。このままの状態をいつまでも保持していっていただきたいものです。
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