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岡豊城跡
登城日:(1999.07.25)
所在地: 南国市岡豊
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 発掘された本丸跡  岡豊城跡は、四国を平定した長宗我部氏の居城として知られる中世の城跡です。長宗我部氏は鎌倉時代に地頭として土佐へ入国したと伝えられており、それ以後、長岡郡を中心に勢力を広げ、戦国大名へと成長していきました。
 岡豊城の築城は発掘調査の結果、13〜14世紀ころと考えられています。「土佐物語」によると16世紀の初頭に一度落城したと伝えられており、その後、国親により1516(永正十三)年に再興され、1588(天正十六)年に元親が大高坂城(現在の高知城)へ移転するまでの、約70年間にわたり居城として使われていたといわれています。
 岡豊山は、香長平野に突き出した丘陵であり、標高97mの頂上部(詰)に立てば、眼下に香長平野をおさめ、遠く太平洋も望むことができます。南には国分川が流れ、自然の要害の地でありました。
本丸奥にある虎口  城跡は、詰を中心とする本城といわれる部分と西の伝厩跡曲輪、南斜面の伝家老屋敷曲輪の二つの出城からなる連郭式の構造となっています。本城は、詰と掘切によりへだてられた二の段、詰の南から西にかけて周囲を取り巻く三の段、四の段からなり、虎口(城の中心となる出入口)は西部に造られています。
 発掘調査の結果、詰・詰下段・三の段では礎石建物跡や土塁の内側に石積みが発見されています。また、多量の土師質土器とともに青磁、白磁、染付と呼ばれる輸入陶磁器、瀬戸、備前、常滑などの国産陶器、渡来銭、小刀、また武器として火縄銃の部品(火鋏)や弾丸などの遺物が出土しています。
 岡豊城の整備にあたっては、発掘調査の成果をもとに詰、詰下段、二の段、三の段の土塁や礎石建物跡などを復元しています。

『岡豊城跡案内板』より


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資料  

私見 奥めいたところに立っている城址碑  浦戸、高知に続いて土佐と言えばこの岡豊城ははずせませんよね。というわけで地図を頼りに高知城から南国IC方面をめざして岡豊城跡を探したのですがなかなか見つかりません。ここしかないだろうということで歴史資料館がたつ山に近づくとようやくそこが岡豊城跡であることがわかりました。
 車を歴史資料館の駐車場に止め、駆け足で駆け上っていくとそこはすでに発掘しつくされた城跡といった印象をうけました。あちこちに細やかな説明板が立ち、コンクリートでかためられた礎石。ちょっと実際の城跡は感じにくかったのですが、あちこちに残る土塁や井戸跡、空堀などを見ているうちに満足するようになりました。
 しっかし、これが浦戸と同じく長宗我部氏が本城としていたところだなんて、高知県の取り組み方がよくわからなくなってしまいました。 
あと、なんでこの城は本丸、二の丸とかじゃなくて詰の段、二の段っていうんでしょうか。誰か教えてください。
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