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淀城跡
登城日:(1998.12.28)
所在地: 京都市伏見区
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
石垣。  徳川二代将軍秀忠は、元和五年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。
 翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。
 寛永十年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(1723)五月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。
 江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二ヶ所に取り付けらていた。
 淀城とその城下町の盛観は延享五年(1748)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。
城址碑。  昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。
 なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。

稲葉神社の祭神と淀藩について
 祭神稲葉正成公は、淀藩稲葉家の祖である。元亀二年(1571)に美濃国(岐阜県)本巣郡十七条の城主、林家に生まれ、長じて稲葉貞通の女婿となり、以後稲葉を称した。ところが、妻の死去により明智光秀の重臣斎藤利三の娘「福」を重通の養女として迎え再婚したのが、有名な「春日局」である。
 正成は豊臣秀吉に仕えその命により、小早川秀秋の家老となり五万石を領した。
秀吉の没後、慶長五年(1600)関ヶ原の合戦の功により徳川家康より感状を受け、のちに松平忠昌に仕えた。その後、下野国(栃木県)真岡の城主となり、二万石を領したが寛永五年(1628)江戸において没し、現龍院に葬られた。
 稲葉家が淀藩主になったのは、初代正成より数えて、五代目の正知の時で享保八年(1723)下総国(千葉県)佐倉より十万二千石で入封した。
 その後明治四年(1871)十六代正邦の時に廃藩を迎えるまで、稲葉家が十二代百四十八年間にわたり淀藩主であった。
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資料
 

私見
川に守られた淀城。  淀城は京阪淀駅のすぐ北側にあります。石垣と内堀跡は今でも整然としており、駅のホームから見える景色が一番美しいです。二の丸跡には城主であった稲葉氏を祭る稲葉神社があり、そこに建てられた説明板によって「あ、秀吉が淀君の為に建てた城じゃなかったのか」ということがわかります。中を進んでいくと南東と北西の隅には櫓台跡が残っています。特に南東側にある櫓台(天守台)は立ち入り禁止の鎖が張ってありました。発掘解体作業の名残りが残っているのでしょうか。私は足を踏み入れたい思いを押さえてその場を後にしましたが、すでにそこに入りこんで散歩していたあの人はいったい何だったんだろうと、非常に気になっています。
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