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五ヶ所城跡登城日:(2008.05.04) 所在地: 度会郡南伊勢町五ケ所浦 |
歴史 |
◆五ヶ所城と愛洲氏 六百六十余年の昔、南北朝時代といわれる時代がしばらくつづきました。 五ヶ所城は、南朝の忠臣愛洲公一族の城で、愛洲城ともいわれ、土地の者は愛洲さんと呼んで、大切にしてきました。 愛洲氏は古くからここに城をかまえ、南北朝の頃には、国司北畠氏と共に、伊勢地方に勢力を張り、熊野水軍と結んで、田丸や一之瀬に進出、大いに活躍しました。功により伊勢の守護職となり所領を受けて、神宮のうしろだてとなりました。 一族は長くこの地を本拠地として、威を振るいましたが、天正四年(1576)北畠氏(織田信雄)の軍に攻められて滅亡しました。 現在、城址と丘の南面の、居館址や塔頭(墓所)が残っております。中世の山城をしのぶ遺構として貴重なもので、昭和十三年県史跡の指定をうけました。 愛洲移香斎久忠(1452〜1528)は、五百三十余年前、この地に生まれました。 成人として九州鵜戸の岩屋にこもり、剣の奥義を悟って、愛洲影流をひらき、天下に広めました。日向守愛洲太郎左衛門久忠と名乗り、移香斎と号して所領をうけました。 愛洲影流は、上泉伊勢守信綱により、新陰流となり、柳生石舟斎の柳生新陰流をはじめ二百余流の源流となり、移香斎は剣祖としてあおがれています。 『五ヶ所城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
五ヶ所川が大きく蛇行し、北西に突き出した形状となった丘陵上に五ヶ所城はありました。西側麓に「愛洲の館」がありますのでここに車を停めて階段をのぼりつめれば城域です。西と北を五ヶ所川と急峻な崖によって守られていますので、城の構造は開けた東と南へと延びていますね。特筆すべきは主郭の東、南側をぐるりと取り巻いている土塁と深い堀です。それが二重になっており、堅牢な構造になっています。北側には帯曲輪状の郭がありますが、かつては川を見降ろしたり、北側の眺望が開けていたのでしょうか。今は木々が育ってしまって景色を楽しむということはできないのが残念ですね。 南側にも平場があり、郭跡のようです。しかし遊具が置かれてたりしますがこういうものは麓の「愛洲の館」そばに集めてはいかがでしょうか(^^;。というかここで遊ぶ子供がいるの?と素朴な疑問がでてきます。うーんすでに記憶があいまいになっていますがひょっとしたら児童遊具じゃなく展望台だったとか・・?(^^;; この五ヶ所城そばには南側約150メートルの距離には愛洲氏館が(行きそびれました)、そして愛洲氏の里として趣のある古い風景を保存されているところもあります。五ヶ所湾そばの海に近い城跡とは思えない、山奥にいるような感覚を覚える五ヶ所城周辺の雰囲気を味わってみてください。目に見える遺構以上に感じる何かがあるような気がします。
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