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田丸城跡 登城日:(1999.12.25) 所在地: 度会郡玉城町 |
歴史 |
田丸(玉丸)城は延元元年(1336)が吉野還幸のとき北畠親房がこれに呼応挙兵するため南勢の拠点として築いたものである。 神領を領有するため南北両朝はしばしばこの城を中心に争奪戦をくりかえしたが合一の後は北畠氏一族がここに居城、玉丸御所となった。 室町末期、織田信長が伊勢攻略の時、次男信雄を伊勢国司北畠氏の養嗣子として和睦、南勢五郡を制し、天正三年(1575)冬、信雄は大河内城から田丸城に移った。この時、田丸城を大修築し、三層天守閣を築き現在の規模を整えたが火災により天守を焼失、信雄は松ヶ島城に移った。以後、稲葉氏、藤堂氏、久野氏がこれを領したが明治維新、廃城により御料林(国有地)に編入。 昭和三年五月にいたり村山龍平氏(旧田丸領士族、朝日新聞創始者)の篤志により旧田丸町所有地となり城山公園として、これを開放した。 当城はいわゆる平山城の初期のものの一つであり、昭和二十八年三重県文化財史跡に指定され、石塁など昔日の面影を今に伝え絶えることなく現代につながる貴重な城跡である。 ◆富士見門(長屋門) 田丸城は、南北朝時代に築城された平山城で南勢地方随一の古城である。戦国時代幾多の遍歴を経て築城以来六百数十年の歴史を秘め明治維新により廃城となった。廃城当時(明治四年)、城内の建物は入札によりすべて取り払われることとなった。城内には八ヶ所の門があった。その内三の丸(現在の玉城中学校付近)には冠門(御成門)と富士見門があった。御成門は三の丸御殿へ、富士見門は、三の丸から二の丸富士見台に向かう門であった。この富士見門(長屋門)は明治初年、宮古の乙部氏邸に移されたものを昭和五十九年三月、町がこれを譲り受け現在地に移築復元したものである。この両側には長屋造りの侍溜があったが乙部氏邸に移築の際、向かって右の部部が取り除かれ左の侍溜が納屋(間口三間半)として移築され保存されていたものである。この城門は江戸時代中期のもので往時の原形をとどめた現存する唯一の建造物で田丸城の歴史を物語る貴重な郷土の文化財としてここに永く保存しようとするものである。 『田丸城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
あまりこの田丸城には期待してませんでした。というのもあまりよく知らなかっただけなんですが。いってみて驚きました。広い!遺構がよく残っている! 玉城町役場の駐車場に車をとめ、田城中学校のまわりをちょうど尾根づたいになった道をひたすら歩いていきます。この時点ではまだたかをくくっていました。 しかし、本丸跡が見えたときは「!」という絶句状態でした。大きく平坦化された山頂部分に聳え立つ石垣群。ちょうど但馬の竹田城を彷彿とさせてくれます。 今回の伊勢攻めのなかでこの田丸城が私には一番のお気に入りになりました。伊勢に来るならはずせない城ですね。
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