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津城跡 登城日:(1999.12.24) 所在地: 津市丸の内、お城公園 |
歴史 |
津城は、織田信長の弟信包によって築城された。信包は信長が伊勢へ勢力を伸ばしてきたとき、長野氏の養子に入ったものである。天正八年(1580)には五層の天守閣が完成し、当時柳山付近が中心であった津の町から町家や寺院が移され城下町が作られた。その後、富田氏が城主ととなり、慶長五年(1600)関ヶ原の戦いのとき西軍の攻撃を受け、城、城下町とも戦火を受けた。 慶長十三年(1608)、藤堂高虎が伊予今治から移ってくると、城に大改修を加え城下町を整備した。本丸を広げ、石垣を高くして北側の石垣に角櫓を築き、堀も整備したが、天守閣は再建されなかった。津城は典型的な平城で、堀が「回」の字形に二重に巡っている輪郭式または囲郭式といわれる形の城である。 城下町は、城を中心に北・西・南側に武家屋敷、東側に町屋が置かれた。町はずれを通っていた伊勢街道を城下に引き入れ、町の発展を図った。また、堀川を掘り、東側の守りとしたが、物資の運搬にも利用され商業の発展に役立てられた。さらに堀川の外側には寺院を配置し、万一の場合に備えた。 ◆東之丸 現在は商工会議所や公園になっているが、かつては小さなお宮さんがあったといわれている。 ◆内堀 本丸、西之丸、東之丸を取り囲んでいたが、順次埋め立てられて現在は本丸と西之丸のまわりに少し残っているだけである。 ◆本丸 城の中で最も重要なところであるが、現在は洋風庭園になっている。南西隅の石垣が1段高くなったところに五層の天守閣があった。また天守台のやや東、石垣が切れたところには埋門があった。周囲には丑寅三重櫓をはじめ五つの櫓があって、多聞櫓でつながっていた。 ◆西之丸 現在は日本庭園になっているが、昔は番所や倉庫があった。南西には玉櫓と二階門があった。門は入口が鍵の手に曲がり、いわゆる桝型門といわれるものであった。本丸との境は土橋でつながっていた。 ◆入徳門 文政三年(1820)、第十代藩主藤堂高兌は藩士やその子弟を教育するための藩校として有造館を創設した。その中心である講堂の正門が、この門である。 入徳門の名前は、「大学は諸学徳に入る門なり」という言葉からきているといわれ、徳に入るの門として作法は厳格であった。 明治四年(1871)、有造館は廃校となったが、その後に創設された小学校第一校、師範学校、津中学校、三重女学校兼附属幼稚園の正門として使われた。昭和二十年(1945)の戦災時には奇跡的に類焼は免れた。戦後は当地にあった県立図書館の正門となるも、昭和四十二年(1967)の同館移築により、この門のみ残された。この間、入徳門は何回も場所を移り、昭和四十六年(1971)現在地に建てられたが老朽化がはげしくなり、昭和六十一年(1986)より昭和六十二年(1987)にかけて保存修理工事(解体復原)を実施したものである。 「津城跡案内板」より
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資料 |
私見 |
津城へやってきました。いかにも藤堂高虎っぽい櫓が復元されていますね。内堀や石垣もしっかり残っています。ここの石垣にはすべて犬走りがついているのがちょっと気になりました。同じく高虎が築城した今治城の石垣にも同様の犬走りが一部だけ存在してましたが、この津城には内堀の内側にはほとんど付けられていました。何の為なんでしょうね。
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