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小諸城

小諸城跡


登城日:(2011.11.21)
所在地: 小諸市丁
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
小諸城案内板より 小諸城の三ノ門  現在残る小諸城が築城される以前、長享元年(1487)に 大井伊賀守光忠によって鍋蓋城が築城されていた。その後自落したとされる後を受けて、天文二十三年(1554)に武田信玄によって大規模な要害として改修が行われることとなった。この時の縄張りを行ったのが山本勘助であるという説もあるが、不明である。
 天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、小諸城は織田氏に引き継がれ、森長一、そして滝川一益の所領となった。しかし同年の本能寺の変以後北条氏の攻撃により落城、小諸城は大導寺政繁が佐久の押さえとして入った。その後徳川氏との講和によって佐久から北条氏が撤退、城には依田信蕃が入城した。信蕃の死後、その遺領を子康国に与えた家康は松平姓を名乗らせ、小諸城を守らせた。
 天正十八年(1590)、秀吉の小田原攻めの功績により、仙石秀久が小諸に入封した。秀久はこの時城の大改修を行い、城内に堅固な石垣を築造し、要所に城門を設け、城下町の整備も行った。

 懐古園稲荷神社由緒
小諸城本丸内にある懐古神社  この稲荷神社は、藩主牧野公が元禄十五年、越後の国与板藩から小諸藩に入封された際、ともに与板藩より遷座されました。
 始めは御城下赤坂の地に祭られ、商売繁盛、家内安全の守り神として崇敬されていました。文政十二年には、神祇官統領公文所より神璽を授かるほどの格式をもった、霊験あらたかな稲荷神社であります。
 小諸城には、別に城内鎮護の守護神として、城内富士見台に稲荷社が祭られていました。この社は戦国時代に武田氏との由緒の言い伝えもありますが、御城中繁盛安全、永久大安の守り神として小諸城を守り続け、廃藩まで祭られてきました。以後、この社と赤坂稲荷は合併されて現在の地に遷座され、大願成就の守護神として多くの人々の信仰を集めております。

 小諸城 大手門
復元された小諸城大手門  小諸城の正門(四之門)。慶長十七年(1612)、藩主仙石秀久が小諸城を築いた時代の建築。
 二階入母屋造の楼門で、石垣と門が一体化していない事や、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、二階は居館形式をとっている事など多くの特徴があります。
 この門を建てる際に、大工は江戸から呼び、瓦は三河(現在の愛知)から運んだとされ、当時はまだ瓦葺の屋根が珍しかったため「瓦門」とも呼ばれました。
 明治維新後は民有となり、小諸義塾の仮教室として、また、料亭として利用されてきましたが、平成二十年、江戸時代の姿に復原されました。
 この実戦的で、華美な装飾をはぶいた質実剛健な建築は、青森県の弘前城とともに大手門の双璧といわれています。
  ニノ門跡、石垣にレリーフ?!  南丸からの眺め  勘助ゆかりの?鏡石 小諸城天守台  

『小諸城跡案内板』より

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資料
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私見
秋色の紅葉谷 石段をあがれば黒門上に出る  長野県小諸市にある小諸城は、小諸駅そばという大変訪れやすい場所にありました。お城としてよりも「懐古園」の名称のほうがよく知られているかもしれませんね。この城の最大の特徴は、駅の東方に広がるかつての城下町がお城よりも高所にあるということです。つまり城下から見下ろせる位置にあるという大変珍しいお城なのです。ということで「穴城」という別名をさらっとあてがってこの城を紹介する文章が多いのですが、実際にじっくりと東側を中心にして歩き回って往時の雰囲気を味わって、実感してみたいところですね。
 城内は東西に長く伸びた構造となっており、南北両脇が大きく落ち込んだ谷地形となっています。とても登れるような場所ではありませんので、非常に攻めにくいのがわかります。またこの地方では珍しい物量の石垣が所狭しと積み上げられており、往時はかなり重要な拠点であったことを想像させてくれます。この時城主であったのは、仙石秀久でした。秀久と言えば、お城だけじゃなく城下町形成もがんばっていたようで、秀久に関連したお城を訪問するたびに私の中での秀久への評価がかなりアップしてきています(^^)。
黒門の石垣を過ぎる 天守台の石垣  現在もこの地に伝わるおそばの伝統は、仙石秀久がそば職人を連れてこの地で広めたのがきっかけだということですから驚きです。そういえば出石城もおそばが有名です。彼はおそば好きだったのでしょうか。とにかくおそばで地域振興を大いに盛り立てていたのですからただ戦働きだけの武者ではないですね。
 荒々しい石積みを見せてくれる天守台や、所々で崩れそうに孕んでいる石垣が古城の佇まいを強く印象づけてくれる小諸城。まさに城好きにはたまらない風格を感じさせてくれていました。また急峻な天険を見下ろしますと、往時と変わらぬ堅牢ぶりを見せてくれるのも魅力の一つでしょう。
 冬の訪れ間近な晩秋という季節も相まって、古城の趣を楽しむことができたのですが、これがもし春であったら随分と違った印象を持ったのかもしれません。というのもここは小諸八重紅枝垂の桜が大変美しい名所として知られる場所であり、またさらには秋に訪れたのなら紅葉谷に代表される色鮮やかな秋の装いに魅了されること間違いありません。「懐古園」として親しまれるにふさわしい名園としての存在感を実感することでしょうね。
馬場西側の空堀 断崖上にある水の手不明御門  ところで、駅から歩いてきたのでしたら忘れずに訪れたいのが大手門です。平成二十年に復元して間もないものですが、現在の小諸城の印象にあう見事な城門として蘇っています。残念なのは三ノ門から大手門までの間が城内としての雰囲気が無くなってしまっているところですねぇ。
 雰囲気といえば、小諸は江戸時代には北国街道に面した宿場町として栄えた場所として知られていますが、現在は少々寂しい気がします。落ち着いたというよりも寂れた感が否めません。是非とも趣ある城下町であり宿場町の景観を整備していっていただきたいと思いました。
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