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小諸城跡登城日:(2011.11.21) 所在地: 小諸市丁 |
歴史 | ![]() ![]() 天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると、小諸城は織田氏に引き継がれ、森長一、そして滝川一益の所領となった。しかし同年の本能寺の変以後北条氏の攻撃により落城、小諸城は大導寺政繁が佐久の押さえとして入った。その後徳川氏との講和によって佐久から北条氏が撤退、城には依田信蕃が入城した。信蕃の死後、その遺領を子康国に与えた家康は松平姓を名乗らせ、小諸城を守らせた。 天正十八年(1590)、秀吉の小田原攻めの功績により、仙石秀久が小諸に入封した。秀久はこの時城の大改修を行い、城内に堅固な石垣を築造し、要所に城門を設け、城下町の整備も行った。 ![]() ![]() 始めは御城下赤坂の地に祭られ、商売繁盛、家内安全の守り神として崇敬されていました。文政十二年には、神祇官統領公文所より神璽を授かるほどの格式をもった、霊験あらたかな稲荷神社であります。 小諸城には、別に城内鎮護の守護神として、城内富士見台に稲荷社が祭られていました。この社は戦国時代に武田氏との由緒の言い伝えもありますが、御城中繁盛安全、永久大安の守り神として小諸城を守り続け、廃藩まで祭られてきました。以後、この社と赤坂稲荷は合併されて現在の地に遷座され、大願成就の守護神として多くの人々の信仰を集めております。 ![]() ![]() 二階入母屋造の楼門で、石垣と門が一体化していない事や、一階が敵の侵入を防ぐ強固な造りに対し、二階は居館形式をとっている事など多くの特徴があります。 この門を建てる際に、大工は江戸から呼び、瓦は三河(現在の愛知)から運んだとされ、当時はまだ瓦葺の屋根が珍しかったため「瓦門」とも呼ばれました。 明治維新後は民有となり、小諸義塾の仮教室として、また、料亭として利用されてきましたが、平成二十年、江戸時代の姿に復原されました。 この実戦的で、華美な装飾をはぶいた質実剛健な建築は、青森県の弘前城とともに大手門の双璧といわれています。 ![]() ![]() ![]() ![]() 『小諸城跡案内板』より
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() 城内は東西に長く伸びた構造となっており、南北両脇が大きく落ち込んだ谷地形となっています。とても登れるような場所ではありませんので、非常に攻めにくいのがわかります。またこの地方では珍しい物量の石垣が所狭しと積み上げられており、往時はかなり重要な拠点であったことを想像させてくれます。この時城主であったのは、仙石秀久でした。秀久と言えば、お城だけじゃなく城下町形成もがんばっていたようで、秀久に関連したお城を訪問するたびに私の中での秀久への評価がかなりアップしてきています(^^)。 ![]() ![]() 荒々しい石積みを見せてくれる天守台や、所々で崩れそうに孕んでいる石垣が古城の佇まいを強く印象づけてくれる小諸城。まさに城好きにはたまらない風格を感じさせてくれていました。また急峻な天険を見下ろしますと、往時と変わらぬ堅牢ぶりを見せてくれるのも魅力の一つでしょう。 冬の訪れ間近な晩秋という季節も相まって、古城の趣を楽しむことができたのですが、これがもし春であったら随分と違った印象を持ったのかもしれません。というのもここは小諸八重紅枝垂の桜が大変美しい名所として知られる場所であり、またさらには秋に訪れたのなら紅葉谷に代表される色鮮やかな秋の装いに魅了されること間違いありません。「懐古園」として親しまれるにふさわしい名園としての存在感を実感することでしょうね。 ![]() ![]() 雰囲気といえば、小諸は江戸時代には北国街道に面した宿場町として栄えた場所として知られていますが、現在は少々寂しい気がします。落ち着いたというよりも寂れた感が否めません。是非とも趣ある城下町であり宿場町の景観を整備していっていただきたいと思いました。
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