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足守陣屋跡
登城日:(2004.03.14)
所在地: 岡山市足守
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
近水園内にある吟風閣 ◆足守藩館構跡
 足守藩祖木下家定は、もと杉原家定と称していたが、実妹の「ねね」が豊臣秀吉の正室(北政所)であったので、秀吉の立身出世に伴って一族に所遇されて、木下、続いて羽柴を、そして豊臣の姓を名乗ることと、豊臣家と同じ菊花紋と五七桐紋の家紋を使用することも許されていた。秀吉の死後、慶長五年(1600)に起きた関ヶ原の合戦のときには2万5千石を領有して姫路城主であり、ねねを守護して中立の立場をとり、徳川家康の天下となった後の慶長六年(1601)3月に、備中賀陽郡と上房郡内に同じ石高で移封されて、足守藩を立藩することとなった。
 家定が慶長十三(1608)年に死亡した後、徳川家康が長男勝俊と二男利房の二人に、遺領を継ぐように命じたが、ねねが勝俊一人に相続させようとしたため、翌年に足守藩主木下家の領地は没収されて、浅野長晟が藩主に封じられた。その後に長晟は和歌山藩主に転出して、足守藩領は幕府の直轄領となった。ほどなく、元和元年(1615)の大坂夏の陣の後に、家康の幕下に属していた木下利房が再び足守藩主に封じられ、6年目にして足守藩主木下家は復活し、以後明治維新に至るまで存続して13代の藩主を数えた。
陣屋跡に残る石垣  利房は宮地山南東山麓のこの地に築造した藩主の居館の屋形構(御屋敷)を中核にして、藩庁や侍屋敷さらには町屋の整備を図って、治所の建設に努め、5代藩主利貞のとき(17世紀後葉)に足守藩陣屋町の完成をみた。
 明治維新後に屋形構の廃止された跡地は、文教施設の場として、旧制女学校、公民学校、青年学校、新制足守中学校などに継承され、最後に使われていた足守小学校のプールと足守幼稚園が移転された後、平成七年公園整備がされて芝生の公園に活用されるようになった。 ◆近水園
 旧足守藩主木下家の庭園として江戸時代の中頃までに作庭された池泉回遊式の庭園で、昭和三十四年に岡山県の名勝に指定された。
 足守藩は、二万五千石の小藩ではあるが、宮路山の南麓に陣屋・会所などの藩の中枢施設とともに大名庭園として、この近水園が配されている。
 本園は池を中心として簡素な設計がなされているが、池には鶴島・亀島が浮かんでいる。亀島には亀頭石、中心石、脚石、亀尾石などがその名の通り配されている。
 池に面して建つ吟風閣は六代目の藩主ギン(八に白)定が宝永五年(1708)、京都御所(仙洞御所)を造営した時に、その残材をもって建てたといわれる。数奇屋造りのたたずまいが、水面に影を落とし情緒をそえている。

『足守陣屋跡案内板』より

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資料
 

私見
侍屋敷跡内部  付近にある高松城や鬼ノ城のネームバリューに押されて、あまり人が来てないだろうと思ってたのですが、意外と観光スポットなんですね。陣屋跡自体は芝生が植えられた公園となっていますが、そのまわりには水堀と石垣が残されています。
 また付近には家老杉原氏の屋敷跡、木下利玄生家、近水園、緒方洪庵生家など歴史スポットが盛りだくさんなので軽く散策するにはいいところですね。
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