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天神山城跡
登城日:(2004.06.06)
所在地: 和気郡佐伯町田土
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
今回の登城口は左下です。 城の脇を流れる吉井川  天神山城は、兄正宗からの独立を果たした浦上宗景が天文ニ年(1533)に、隣接する太鼓の丸城から拡張するようにして築かれた山城である。
 当城に居城してから宗景の勢力は次第に広がっていく。美作、播磨にもその影響下となっていくようになるが、宇喜多直家の裏切りにあり次第にその勢力が拡大してくると織田信長に支援を求めようとする。
 がやがて、戦闘では落城しなかったこの天嶮の山城も家臣の裏切りにより1577年に落城した。

◆下の段
 隠曲輪で西方より侵入して来た敵を上から攻撃する郭で、五十騎一備の枡形である。
◆西櫓台
 佐伯平野の見張りと本丸・竜ヶ鼻城との連絡場としての櫓台があった。
◆三の丸
 三の丸とは通常、二の丸と同様に城主の館、もしくは重臣(家老格)の屋敷が置かれていた。
 城本来の機能的構成部分の外郭に相当する。
 虎口は他の曲輪と比べて厳重を極めている。
◆大手門跡
 櫓門で四本柱の上に矢倉を築いたもの。
 大手門外の帯曲輪は、百貫井戸の水の手曲輪がある。

『天神山城跡案内板』など

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資料
 

私見
桜の馬場南面にある石垣 天神山城本丸  天神山城跡へ訪問される方はまずふるさと会館に行かれることをお奨めします。関連資料が豊富にあり、詳しいパンフレットもいただくことができます。登城する際には是非ともお役立ちいただけるものとなりますよ。
 さて、この城への登城ルートはいくつかあるのですが私はふるさと会館に一番近い登城道から登り、侍屋敷跡がある南側へと降りるルートをとりました。調子よく登っていましたが結構傾斜が激しくなかなかきついものがあります。が、後ろを振り返ると緩やかなカーブを描く吉井川の美しい景色を楽しむことができますので疲れも癒されます。振り返るたびに見える景色が異なっていますので感じている以上に急傾斜を登っているんでしょう。
 登りはじめてから15分くらいだったでしょうか、いよいよ城域に入っていくようです。ここからは終始丁寧な案内板が設置されており、確実にお城を楽しむことができるように配慮されています。やがて下の段、西櫓台、三の丸といった曲輪が段々畑のように続いており、随所に石垣も見ることができます。中でも大手門がある桜の馬場の南斜面には見事な石垣が残っています。いまにも崩れそうな微妙なバランスで形を維持しているようで、今のうちに崩れないよう手を施したほうがいいんじゃないかなぁと感じました。
 やがて長屋の段、二の丸等を経て本丸へと到着です。太鼓の丸城と比較してこの天神山城はそれほどアップダウンもなく、居住しやすくなっているような気がします。しかし周りにはこれでもかと言わんばかりに石垣が詰まれていますので外敵の侵入には万全の備えがあったのでしょうね。家臣の裏切りにより落城していますが、激しい攻防があってもよかったのになぁ、と思うのは私だけでしょうか。
 さて、南側にある九十九折れとなった山道を降りていきます。この道は斜面上に作られたものですので一人が歩けるほどしか道幅がありません。またかなり滑りやすくなっているので慎重に歩いていってください。
石垣が豊富に残る侍屋敷跡  この先には侍屋敷跡があるということで、削平地がある程度の想像しかしていなかったのですがここでもその予想を大きく覆され、疲れ切った体が自然と生き生きと探索を始めてしまっています(笑)。数段に分かれた削平地の上の段には立派な石垣があり、空堀も見えます。そしてその下には高さ1メートルほどの石垣が横に長く続いています。最初は後世のものか、あるいは猪垣か、と思いましたがそれがやがて下へと折れ曲がり屋敷群の下まで続いているのです。説明しにくいのですが、ちょうど安土城の大手道脇に秀吉邸や前田邸が続いているようなイメージです。石垣で囲われた削平地が何段にもあり、その形状が良好に残されているのです。天神山城であちこちの斜面を登り降りし、さらに太鼓の丸城も踏破した後で疲労困憊気味でしたがテンションはあがりっぱなしでした(笑)。
 備前最大級の山城、天神山城は1日かけて楽しめる大規模なものでした。
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