常山城跡 登城日:(200.05.03) 所在地: 玉野市字藤木・用吉・木目・及び灘崎町迫川 |
歴史 |
「児島富士」と呼ばれるこの常山(標高307m)の山頂一帯に、「常山城跡」はあります。城郭は山頂の本丸を中心に合計十四の曲輪で構成される。「連郭式山城」です。 築城の時期は戦国時代の初めと推定され、上野氏・戸川氏・伊岐氏等の城主が知られています。女軍の戦いは1575(天正三年)のことで、この戦いで当時の城主上野氏は毛利氏によって滅ぼされました。その後、常山城は毛利氏の支配下に置かれましたが、毛利氏の築城技術と言われる竪堀や堀切の遺構は発見されていません。恐らく毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備されたと思われます。 常山城は児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点でしたが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、1603(慶長八年)に廃城となりました。城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと伝えられています。 標高307メートルの常山は、一名児島富士とも言われ、多くの歴史を秘めた桜の名所として知られています。 また周辺は常山城史跡として保存され、今を去る約400年の昔、城主上野肥前守高徳の守る常山城は小早川隆景の先鋒、浦兵部宗勝の軍勢に攻められ落城しましたが、このとき、城主高徳の妻、鶴姫以下34人の女性も討死しました。山頂にある34基の墓はこの常山合戦で有名な女軍の墓標で、桜にかこまれて静かに眠っています。 『常山城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
どこにでもありますね、なんとか富士という別名を持つ山が。丹波富士が八上城のある高城山であるようにここには常山城が山頂にありました。ですからここは車でいかないととても歩いてなんていけません。(^_^; というわけで地図には常山をぐるりと周った細い道があるようです。ちょっと細いかなと思いましたが迷わず車を入れてみました。が、これが間違いだったと気づいたのは30分以上後のことでした。車幅ぎりぎりの道幅でなおかつ右手の山側には塀が続いており、反対側は溝になっています。「とんでもないところに来てしまった。」と後悔する暇なく、ぎりぎりの運転を続けひたすら前に進むより仕方ありません。 が、さらに地獄が待っていました。徐々に道路は狭くなっていきます。ミラーをたたみ、左側のタイヤが道路からはみ出すのを気にしながら細心の注意を払います。もはや前に進むよりほかありません。 しかしそれにも限界がやってきました。もう目の前には車では通れないほどの狭さになっていたのです。最悪でした。私は何度も何度も車から降りてタイヤの微妙な位置に注意を払いながらひたすら方向転換をはかりました。気が付くと左右両方のタイヤが半分ほど道幅からはみ出ています。少しのハンドルミスも許されない状況だと理解した私はそれでも「筋肉番付」(昔そんなTV番組があったんです)を連想する程度の余裕は残っていたようで、なんとか抜け出た時には全身汗びっしょりでした。クーラーをかけているのにこんなに汗が吹き出てきたのはかつてないことです。 そのあとしばらく休憩して、再度山の周りをまわってみようと先ほど曲がった路地より少し先にいくとすぐに「登城口」と書かれた道路が見えてきました。どうやらこれが地図にのっていた登城用の道路のようです。4キロほど登っていきましたが、さきほどのことを思うと全然なんともない道です。 駐車場につくと、目の前に電波塔がどーんと建てられていました。山頂部にはよく見られる光景ですね。城跡は多少破壊されますが、おかげで車が通れる程度の道が整備されているという現実には目もくれず私は早速城跡を一回りしてみました。青木丸、三の丸と曲輪がはっきりとわかる程度には残っています。そして二の丸には有名な女軍の魂をまつった石碑がたてられています。この時代に男勝りに勇敢に敵と戦った女性らには頭が下がります。そして本丸跡には上野高徳の石碑が3〜4メートルの高さでつくられています。それぞれの曲輪の脇には石垣跡が残っているのもうれしいところです。意外とよく当時の雰囲気が伝わってくる城跡だなぁと感じました。 今日の教訓として、知らない山城はむやみに車で攻めようとしないということを頭に叩き込んでこの場をあとにしました。
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