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府内城跡登城日:(2009.03.21) 所在地: 大分市荷揚町、大分城址公園 |
歴史 |
府内城は1597(慶長二)年、福原直高によって築城が始められ二年後には一部が完成しましたが、直高の領地没収によって中断、これに代った早川長敏も1600(慶長五)年、関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)に加担して取り潰されました。次いで翌年、竹中重利が入封して築城工事を再開、石垣の築造には熊本藩の加藤清正の援助を受けるなどして、1602(慶長七)年四重の天守閣がそびえる城郭が完成しました。続いて城下町の建設が始められ、やがて東西約1.1キロメートル、南北約1キロメートルにおよび豊後最大の規模を誇る府内城下町が出来上がりました。 荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めました。荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれています。今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿から白雉城とも呼ばれています。 城と城下町を完成させた竹中氏は、その後長崎奉行を兼務していた重義の時に、非違をとがめられて断絶しました。代って1634(寛永十一)年、壬生城(栃木県)から日根野吉明が入封しましたが、あとつぎがなく、一代で断絶しました。次いで松平(大給)忠昭が1658(万治元)年に新藩主として入封、以来1871(明治四)年の廃藩置県まで、二万余石の譜代大名として10代にわたる藩主によって府内藩政が進められました。この間1743(寛保三)年に城下におこった大火によって、天守閣を始め城の多くの施設が焼失し以後天守閣は再建されませんでした。 1871(明治四)年十一月大分県が成立、翌年城内に県庁が置かれて県政の中枢を担う場所となりました。1921(大正十)年には、新県庁舎が竣工しましたが、戦後1962(昭和三十七)年県庁舎の移転にともない、1966(昭和四十一)年には現在の大分市文化会館が完成しました。この年、1945(昭和二十)年の米軍の大分空襲により焼失した五つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取りもどしました。 城跡は旧状をとどめる堀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城址公園として市民の憩いの場になっています。 ◆廊下橋 松栄神社の場所は、かつて山里丸と呼ばれた郭のあった所です。山里丸は、茶の湯や能、月見などの諸芸能が営まれた特別な場所であり、府内城の風格を示す貴重な史跡です。 山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。 復元に先立って、平成七年度に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。廊下橋の規模は長さ21.7メートル、幅員2.4メートル、橋脚高3.8メートル、建築部分の最高高さ4.6メートル、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。 ◆帯曲輪 府内城は江戸時代、本丸・東ノ丸、西ノ丸と山里丸を含む北の丸からなり、天守閣のあった本丸周辺には水堀があり、北方も海に面した典型的な浮城となっていました。 堀の東側から北側には、堀を囲んで、堤防状の土手が築かれていました。 これは、帯曲輪と言われ、城と海とを区画するための外周施設で、古絵図によれば、354間(約644メートル)の長さと書かれています。現在、お堀の東側に外苑として細長く残っているこの場所がそれにあたります。 『府内城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
府内城は、大分県庁や大分市役所が立ち並ぶ都市部の中に大分城址公園として残されていました。昭和通り沿いに復元された櫓を見ながら大分市役所前の信号を北へ曲がり、大分文化会館脇を抜けてだだっ広い駐車場に車を停めました。城址公園はかつての本丸、東丸、西丸などが内堀を埋められてしまって1塊になっています。この府内城は浮城と呼ばれるように、水堀を多用した複雑な構造と海に面して造られていたことが大変興味深い縄張りでした。都市部では難しいのはよくわかっているつもりですが、今の姿はなんとなく物足りなく、寂しい気がしてしまいます。なんででしょうね。水堀もそのまま残っていますし、復元櫓、廊下橋、天守台などもあるのに・・(^^;。 ま、気を取り直して100名城スタンプを押しに行くことにします。文化会館の北側入口を入ったところに置かれているので時間をチェックしておかないと、入れないということがありそうですね。(私は人吉城で痛感しました。) とりあえず廊下橋を通ってぐるりと右周りで一周してみることにします。廊下橋とは木橋に柱や屋根が付けられているもので、通行を外部から目隠しされた構造のものを言います。福井城や和歌山城も復元されていましたが、比較的復元しやすいのでしょうか。その手前は石垣でうまくまっすぐ進めなくなっているのはいいですね。 廊下橋を渡ると松栄神社が建っていますが、かつては山里丸があったところで北丸も続いていました。しかしこのあたりは随分と姿が変わってしまっていますね。ランニングをしたり犬の散歩をしている人と何度もすれ違います。形状が時代とともに変わっていかざるを得ないのは残念ですが仕方がないとは思います。が、城跡が地元の方の憩いの場所となっているのはいいことだと思います。 帯曲輪ですが、弧を描くようにして城の外周となっていますが、往時は左側はすぐ海だったというのが実に刺激的です。海とは行っても入江となって奥まったところでしたので、河口と言うのかもしれませんが。ただ正保城絵図で府内城を見ますとこの姿が拝めないのが残念で仕方がありません。壮観だったことでしょうねぇ・・。 そうそう、私にとって意外でした(知らなかっただけなんですが)のは、「櫓の数が多いなぁ」というものでした。似たような印象ですがもうちょっと時間をかけてみてもよかったかもしれません。
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