![]() |
![]() |
Check
![]() |
![]() |
府内城跡登城日:(2009.03.21) 所在地: 大分市荷揚町、大分城址公園 |
歴史 | ![]() ![]() 荷揚城とも呼ばれる府内城は、大分川の河口左岸、別府湾に接したかつての「荷落ろし」(交易地)の場所に城地を定めました。荷揚の城名の由来は「落」の字を忌み、「揚」の字に改めたといわれています。今はその面影はほとんど失われていますが、府内城と府内城下町は内堀(現存)、中堀、外堀の三つの大きな堀をもち、北は海に接してまさに水城ともいえる城でした。また、その美しい姿から白雉城とも呼ばれています。 ![]() 1871(明治四)年十一月大分県が成立、翌年城内に県庁が置かれて県政の中枢を担う場所となりました。1921(大正十)年には、新県庁舎が竣工しましたが、戦後1962(昭和三十七)年県庁舎の移転にともない、1966(昭和四十一)年には現在の大分市文化会館が完成しました。この年、1945(昭和二十)年の米軍の大分空襲により焼失した五つの櫓も復元(鉄筋コンクリート製)され、往時の姿を取りもどしました。 城跡は旧状をとどめる堀、宗門櫓、人質櫓、櫓(天守台)跡が県史跡に指定され、また城址公園として市民の憩いの場になっています。 ◆廊下橋 ![]() 山里丸と西の丸を結ぶ堀の上に架けられていた渡り廊下が、この廊下橋です。山里丸と同様、他にあまり例を見ない貴重な史跡であることから、平成8年度に復元しました。 復元に先立って、平成七年度に行った発掘調査の結果、「慶長期絵図」に示された石垣が確認され、その内容が正確に伝えられていることも分かりました。復元に際しては、「慶長期絵図」「松栄神社所蔵絵図」等を参考にしました。廊下橋の規模は長さ21.7メートル、幅員2.4メートル、橋脚高3.8メートル、建築部分の最高高さ4.6メートル、檜造り、壁はしっくい塗り、屋根は檜皮葺きとなっています。 ◆帯曲輪 府内城は江戸時代、本丸・東ノ丸、西ノ丸と山里丸を含む北の丸からなり、天守閣のあった本丸周辺には水堀があり、北方も海に面した典型的な浮城となっていました。 堀の東側から北側には、堀を囲んで、堤防状の土手が築かれていました。 これは、帯曲輪と言われ、城と海とを区画するための外周施設で、古絵図によれば、354間(約644メートル)の長さと書かれています。現在、お堀の東側に外苑として細長く残っているこの場所がそれにあたります。 『府内城跡案内板』より
|
資料 |
【地図を表示する】
|
私見 | ![]() ![]() ま、気を取り直して100名城スタンプを押しに行くことにします。文化会館の北側入口を入ったところに置かれているので時間をチェックしておかないと、入れないということがありそうですね。(私は人吉城で痛感しました。) とりあえず廊下橋を通ってぐるりと右周りで一周してみることにします。廊下橋とは木橋に柱や屋根が付けられているもので、通行を外部から目隠しされた構造のものを言います。福井城や和歌山城も復元されていましたが、比較的復元しやすいのでしょうか。その手前は石垣でうまくまっすぐ進めなくなっているのはいいですね。 ![]() 帯曲輪ですが、弧を描くようにして城の外周となっていますが、往時は左側はすぐ海だったというのが実に刺激的です。海とは行っても入江となって奥まったところでしたので、河口と言うのかもしれませんが。ただ正保城絵図で府内城を見ますとこの姿が拝めないのが残念で仕方がありません。壮観だったことでしょうねぇ・・。 そうそう、私にとって意外でした(知らなかっただけなんですが)のは、「櫓の数が多いなぁ」というものでした。似たような印象ですがもうちょっと時間をかけてみてもよかったかもしれません。
|