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田丸城跡登城日:(2012.05.04) 所在地: 中津市福島、長久寺 |
歴史 | 応仁の乱の終わる文明九年(1477)当地の地頭福島但馬森祐斎及び息女千代姫が廻国僧、天然和尚に帰依し、当寺を開基する。天然和尚は、後に京に趣き蓮如上人の弟子となり釋浄祐の名を賜り、再度九州に下った(1484)。これ以後、当寺は天然教化の豊前、防長の道場を統括し、浄土真宗の発展に重要な役割を果たした。 当寺の境内は、福島田丸城跡である。豊前の国人一揆に際し、宇都宮鎮房に呼応した賀来氏(大畑城)、福島氏は黒田孝高指揮の吉川広家、黒田長政の軍の攻撃された。 陰徳太平記には両城に於て討取所宗徒の頭八百余級悉く獄門に掛けたと記されている。 この時の城主は佐渡守鎮充であり、天正十五年十二月末の事である。当寺は細川藩の時代に復興を遂げ、浄土真宗の拠点として現在に至っている。 歴代住職の中、十六世紀道陰は薩摩の人で信仰上の大論争であった三業惑乱で大きな功績を上げた後、当寺に入寺したが、以後豊前の地域に多くの学僧が輩出した。当寺の十八世慶忍もその一人である。また二十一世道忍は本願寺宗会議長、宗務総長等も歴任した。 現在の境内地には自然林指定の山林と二重の堀を残し、約一町五畝の敷地は落城時とほとんど同じである。 本堂は天保九年(1838)山門、鐘堂、経堂、石橋は享保元年(1716)の創建である。 『長久寺案内板』より
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資料 |
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私見 |
まだ薄暗い時間帯での朝駆けでしたので、周りの状態がわかりづらかったのですが、お寺の案内板に「二重の堀を残し、約一町五畝の敷地は落城時とほとんど同じである。」と書いてあるのは大変助かりました。大畑城同様に、黒田孝高が中津に入った後の天正十六年に攻撃を受けて、落城したのですね。これら小勢力の城砦は一掃されてしまったのでしょう。
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