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中津城跡登城日:(2007.10.11) 所在地: 中津市二の丁 |
歴史 |
中津城は、天正十五年(1587)中津の地に封ぜられた黒田官兵衛孝高によって、山国川に臨む丘陵上に築城された。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより、東軍として戦った黒田氏は筑前五十二万石に封ぜられ福岡に移ることとなった。当初忠興が小倉城に入ったが、慶長九年(1604)剃髪し三斎とすると中津に隠居してしまった。かわりに忠利が小倉に入城する。 忠興は城の改修を行い、三の丸を増築、町割りを定めて現在の中津の基礎をつくりあげた。 その後、寛永九年(1632)肥後五十四万石に転封した黒田氏の代わりに播磨龍野から小笠原長次が八万石で入部した。長勝、長胤、長円と続く悪政の中、藩は疲弊していったがやがて後嗣がないことから小笠原氏は城地を没収となった。 ついで享保二年(1717)奥平昌成が入部し、藩の財政立て直しをはかった。現在建つ天守は昭和三十九年に奥平氏によって模擬天守が建てられたものである。 ◆奥平家(十万石) 村上天皇を祖とする奥平家は、群馬県甘楽郡を発祥とする関東武士であった。三河の国に移り奥平家第二十六代貞能公を以て初代とする。嫡男信昌公は三河の国長篠城主で天正三年(1575)天下統一をめざす武田勝頼軍一万五千騎と二十八日間にわたり激戦・籠城をし、落城寸前で織田・徳川連合援軍の鉄砲隊の活躍を得て大勝利を収めた。この軍功(長篠の合戦)により信昌公は家康公の長女亀姫を娶り、徳川幕府三百年の親藩となる。亀姫は四人の男子をもうけ長男家昌公は奥平宗家を継ぎ、二男から四男は家康公の養子となり、松平姓を名乗った。四男松平忠明は初代大阪城主や姫路城主も務めた。 奥平家は長篠の合戦後、愛知県新城城・岐阜県加納城・栃木県宇都宮城・京都府宮津城を経て享保二年(1717)奥平家第七代昌成公が当地中津に入城する。以後九代にわたって藩政の改革や蘭学の奨励など数多くの功績を残し第十五代の昌邁公まで155年間中津で活躍し明治維新をむかえた。 藩祖を祀る奥平神社では長篠の合戦当時を偲び毎年五月二十一日に「たにしまつり」を盛大に執り行っている。 『中津城跡案内板』及び『日本城郭体系』新人物往来社刊参照
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資料 |
私見 |
維持が困難となったということで売りに出される話が一時話題になった中津城にやってきました。せっかく建てた貴重なランドマークとしてなんとか維持してほしいという声や、いっそのこと上物は潰して、石垣や堀などの遺構を市が維持してほしいという声などいろいろあるのでしょうが、やはりまずは行ってみないと、と思った次第です。私はできるなら今の状態で維持できるのがいいなと思うのですが、やはり資金がないとなんともならないのはよくわかります。わずかですがせめて入城料だけでもご協力しないと(^-^; 行ってみて感じたのは城下町の風情が残るいいところじゃないですかってこと。行った時も石垣工事が行われており、「あれ?売却騒動はどこいったの?」という印象さえ受けました。ま、行ったのが平日だったのもありますがだだっ広い駐車場にポツンと車を停め、散策開始です。 模擬とは言え、写真を撮るにはいい被写体ですね。これはこれで城好きとしてテンションがあがるのは否定できません(^-^)。天守から見下ろす三角の縄張りと天然の堀となる山国川(中津川)の景色は気持ちいいですね。 私が訪れたこの日はテレビ局(?)のクルーが取材に来ていました。「訪問者は1人きりで、閑散としております。」とでも言っているのかな(^^;、脇を通り抜け、大分県をあとにしました。
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