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烏帽子形城

烏帽子形城跡


登城日:(2012.01.21)
所在地: 河内長野市喜多町、烏帽子形公園
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
烏帽子形城の想像図 横堀が特徴的な烏帽子形城  この城は残されている記録から一時期使われなかったこともありましたが、室町時代から江戸時代の初め、元和年間(1615)までは確実に使用されていました。城は北側に石川本流を、東側に支流の天見川を見下ろす、標高182メートルの烏帽子形山に築かれています。
 城の築城は南北朝時代に楠正成によって築かれたと伝えられています。応仁の乱以後、河内守護の畠山氏の持ち城であり、安土桃山時代にはキリシタン大名でこの地域の有力な武士であった甲斐庄正治が城主となっています。そして、最後の城主が徳川の旗本となった正治の子の甲斐庄正房です。
 城は主郭と腰郭を中心にコの字状に堀と土塁が巡らされ、北東には曲輪が造られています。1988年の調査で主郭の西側の縁に沿って、室町時代末期ごろの2棟の細長い礎石建物が見つかり、城の施設の一部と考えられています。(『烏帽子形城跡案内板』より)

二重堀切と土塁 郭2の切岸  烏帽子形城は、古くは長野城に比定される説や、南北朝時代に楠木正成によって築城されたとする説があるが、いずれも決め手となるものはなくよく分っていない。高野街道や和泉街道が城の麓を通過する交通の要衝であることもあり、河内国守護である畠山氏の騒乱や三好長慶の台頭、三好三人衆と根来衆の戦いなど多くの戦いにまみえた戦場であった。
 天正十二年(1584)羽柴秀吉による紀州攻めに先駆けて、岸和田城城主であった中村一氏による改修が行われ、現在見られる空堀や土塁などの姿が形成されていった。その後橘長治が烏帽子形氏を名乗り、城主を勤めた後は、長治の一族である橘正治、正房が大坂の陣に徳川方として参陣した後は旗本となり、城は廃城となっていった。(『河内長野市城館分布調査報告書』河内長野市教育委員会刊参照 )
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資料
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私見
深くて最も大きな横堀烏帽子形城の主郭  昨年の2011年暮れに国の指定史跡として指定されました烏帽子形城にやってきました。南海高野線「河内長野」駅から直線距離で南西に約1キロのところにある同城は、烏帽子形公園として整備されています。残念ながら雨が降ってきましたので贅沢にもタクシーで登城ですが、公園化された城跡はさすがに歩きやすくて、傘をさしながらでも問題なしでした。
 公園の駐車場からはいくつかの散策ルートを示す遊歩道が伸びていますが、ここは一番遠い東側から回り込んでみます。次第に城跡らしい雰囲気が出てきましたよ。横堀が多用されている構造で、土の城なんだなということがよく分るようになってきました。事前に用意していた縄張り図を見ると中央部の郭をコの字状の横堀が二重構造となって、巡らされています。図面からでもワクワクする期待感溢れるお城でしたが、いざ目の前にすると言葉で言い表せないですね!大変見やすくなっているのも素晴らしいです。現在の横堀などの遺構は、羽柴秀吉の紀州攻めの際に中村一氏が行った改修だそうですね。堀幅がまちまちなのは適当に造っているような印象を受けましたが、堀底の高低差には堀内障壁などを設けた実に計算されつくした築城術だったのですね。堀底を歩いてみるとその特徴的な構造がよくわかりますのでおススメです。
畠山氏関連のものだという主郭からの眺望 中央部に位置する郭に到達しました。2つの郭で構成されていますがそれぞれ長細く、城域の規模を考えると少々手狭なものだなと感じました。主郭である小さなほうには礎石建物跡が2棟見つかっています。面白いのは瓦も見つかっており、それがひょっとすると安土城の頃よりも前じゃないかという可能性があるということなんですよね。まさかなぁ・・とは思いますが、そんな夢のある話がここにあるなんて知りませんでした。
 そうそう忘れてました。最初に河内長野駅そばの観光案内所に顔を出してください。そこで販売されている烏帽子形城の冊子(500円)が実によくできています。お城をよくご存じない方でも分るように配慮されているのがとても勉強になりました。
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