
西側から
大坂城大手を目指して歩いていきますと、乾櫓が見えてくるあたりで合同庁舎の大きな建物が左手に出てきます。すると歩道の脇には小さな「東町奉行所」の石碑がありました。『大阪市の文化財』には
西町奉行所しか掲載されていないのが気になってましたが、碑だけはあったんですね。
東町奉行で有名なのは、姦吏として悪名高い跡部良弼があがるそうですが、そうなんですか?(^^;ただ、大塩平八郎は覚えてますのでちょうどそのころのお話です。天保七年(1836)は全国的に深刻な食糧危機を迎えており、市内でも餓死者がでる状況だったといいます。しかし一方で米の買い占めで私腹を肥やす豪商がおり、そんな状況に義憤を覚えた大塩平八郎はたびたび東町奉行に上申していました。しかし東町奉行の跡部は一向に動こうとしません。(『大阪城歴史散策』保育社刊参照)あくまでも想像ですが、「そちも悪よのう。」というシーンが浮かんできてしまうのは私だけではないはず。
やがて大塩平八郎は東西の奉行所を襲い、また船場の豪商から金品を奪って窮民に分け与えようとしたのです。世に言う「大塩平八郎の乱」ですね。なんだか昔の日本史の教科書を開いてみたくなった一瞬でした。