城めぐドットコム HOMEへ Check   Twitterでつぶやく  

東町奉行所

東町奉行所跡


登城日:(2009.03.01)
所在地: 大阪市中央区大手前1丁目
 
【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
奉行所跡地に建つ石碑  大阪は幕府直轄地として将軍直属の大阪城代が置かれていた。城代は5〜6万石の譜代大名から選ばれ、小諸侯から任ぜられた定番、加番、大番を率いて関西の諸大名の監視に務めた。  また東西の町奉行や堺奉行も所管した。元和五年(1619)に設置された東西の両町奉行所は当初大阪城京橋口門の外にあったが、享保九年(1724)の火事により、西町奉行所は本町橋詰に移転した。

『大阪市の文化財』大阪市文化財協会刊参照

【戻る】

資料
【地図を表示する】
 

私見
現在のお役所、いや合同庁舎前に小さな石碑が  西側から大坂城大手を目指して歩いていきますと、乾櫓が見えてくるあたりで合同庁舎の大きな建物が左手に出てきます。すると歩道の脇には小さな「東町奉行所」の石碑がありました。『大阪市の文化財』には西町奉行所しか掲載されていないのが気になってましたが、碑だけはあったんですね。
 東町奉行で有名なのは、姦吏として悪名高い跡部良弼があがるそうですが、そうなんですか?(^^;ただ、大塩平八郎は覚えてますのでちょうどそのころのお話です。天保七年(1836)は全国的に深刻な食糧危機を迎えており、市内でも餓死者がでる状況だったといいます。しかし一方で米の買い占めで私腹を肥やす豪商がおり、そんな状況に義憤を覚えた大塩平八郎はたびたび東町奉行に上申していました。しかし東町奉行の跡部は一向に動こうとしません。(『大阪城歴史散策』保育社刊参照)あくまでも想像ですが、「そちも悪よのう。」というシーンが浮かんできてしまうのは私だけではないはず。
 やがて大塩平八郎は東西の奉行所を襲い、また船場の豪商から金品を奪って窮民に分け与えようとしたのです。世に言う「大塩平八郎の乱」ですね。なんだか昔の日本史の教科書を開いてみたくなった一瞬でした。
【戻る】