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梶原台場跡登城日:(2011.07.21) 所在地: 高槻市梶原3丁目、上牧北駅前町 |
歴史 |
梶原台場は、文久三年(1863)三月、京都守護職、会津藩主松平容保が設置を幕府に建白したことから始まる。台場修築総裁として勝海舟が、そして会津藩からは野村左兵衛らが担当したという。台場は樟葉台場同様、京と大阪を結ぶ街道を抑えた「関門」機能を有しており、禁門の変によって一時建設工事は中断したが、慶応元年(1865)台場は完成し、以後津藩が警備を請け負った。
台場の構造は、稜堡式のプランが用いられており、稜堡の突端部と西国街道に向けた砲台が2門設置された。また西国街道を内部に引き込み、複雑に屈曲したルートが関門としての機能を色濃く感じさせる。史料上の名称としては、「梶原村関門」「神内炮台」「神内御台場」などが使われている。 参照文献: 『ヒストリア217号』大阪歴史学会刊 『幕末 京都をめぐる雄藩と高槻』高槻市立しろあと歴史館刊
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資料 |
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私見 |
嘉永七年(1854)ロシアのプチャーチンが大阪湾に現れたことを機に、京へ侵入する外敵を防ぐ目的で淀川沿岸に台場が築かれました。左岸に樟葉台場、そして右岸には高浜台場です。しかし、高浜台場の南西約2キロメートルほどのところにも台場があったのは驚きでした。城の本にはまったくといっていいほど出てこなかったこの梶原台場はすでにJRや阪急の線路が走っており、住宅も建ち並んでいます。地表に残る遺構はありませんが、図面に残るその姿は樟葉台場に匹敵する威容を誇る稜堡式のものでした。また、西国街道を取り込んで、掘や半月堡(馬出し)や外枡形虎口を通過させる複雑なルートはまさに堅牢な関門そのものです。都合5回の屈曲を要するこの関門は、樟葉台場以上のものであるという見方もあるようです。ものすごいですね・・・。地表面には遺構はないというものの現地に行ってみると台場の外周ラインが道路と重なるところもあり、まったく見えないものの何となく分った気になってきました。淀川沿岸部に設置された樟葉台場や高浜台場と比べてみると、やはり明らかに西国街道を意識した構造になっているのが感じ取れますよ。
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