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楼の岸砦跡登城日:(2005.10.25) 所在地: 大阪市中央区石町2丁目 |
歴史 |
元亀元年(1570)、織田信長が姉川の合戦で浅井、朝倉連合軍を撃破していた頃、阿波から三好三人衆が信長のいない隙に乗じて福島と野田に砦を築いた。迎え撃つようにして天王寺に本陣を置いた信長は、両砦を囲むようにして天満・川口・渡辺・神崎・難波などに陣取った。信長の要請に抗しきれず将軍義昭も細川藤孝の中嶋城に入った。やがて信長方となった三好義継と松永久秀らが海老江を攻略後に築いた砦が楼の岸と川口であった。 野田、福島砦に近接する楼の岸砦や川口砦には櫓が建てられそこから大鉄砲を打ち込んで攻めかかった。その直後、石山本願寺から楼の岸砦と川口砦に対する攻撃が始まったのである。楼の岸砦には稲葉良通、中川重政が、川口砦には平手監物、丹羽源六、佐々成政らが守備していたが一旦は石山本願寺がこれらを奪取。やがて自陣の砦として活用したようであるが、石山本願寺落城の前に周囲の砦も運命を共にしたのであろう。 『織田信長 石山本願寺合戦全史』KKベストセラーズ刊参照
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資料 |
私見 |
石山本願寺の合戦の際、信長方、石山本願寺方をあわせると相当の数の砦や出城が築かれたようです。楼の岸砦はそんな多くの砦の中の1つです。市内でその痕跡どころか位置がわかることなんて非常に稀でしょうけど今回は弊サイトの登城記名帳に書き込んでくださった原田様の情報でたどりつくことができました。 場所は「天満橋」信号を1本東に入ったところで、斜面の途中にある小さな神社でした。「坐摩神社行宮」とあり、社には神功皇后鎮座石と称する巨石が祀られています。でも厳重に守られているのでよく見えません(;_;)。しかも詳しい案内板もあがっていますがほとんど読めません(T-T)。 神社がある場所はほんとに大阪城の間近なので、いつ石山本願寺から攻め寄せてくるかひやひやな状態にありますね。信長からしたらそれで吊り上げてから開戦の口実とするつもりだったんでしょうか。川口砦の場所もなんとか調べて訪れてみたいなと思います。どなたか関連情報がありましたらお教えくださいませ。
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