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堺南台場跡


登城日:(2005.05.16)
所在地: 堺市堺区大浜北町4丁、大浜公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
堺南台場の北側土塁跡 整備された南側外堀跡 ◆御台場の石垣と外堀
 江戸時代の終わり頃、外交を求める外国船に対し港湾防備のため、全国各地に石垣を築き大砲を設置した砲台場が造られました。
 堺でも大阪湾防備のために、安政二年(1855)頃から旧堺港をはさんで南とに砲台場が造られました。
 南岸の御台場は築造当初は海に向かって一直線上に大砲を設置するという簡単なものでした。しかし慶応二年(1866)、より広い範囲を防備することが可能な洋式の砲台場に大改築が行われました。南北295メートル、東西195メートルで、北、西、南側は石垣を積み一部に堀を設け、東側は防波堤を利用しています。
 大浜公園の南側は御台場の石垣と外堀が比較的よく残っています。このたび石垣を活かして外堀の整備を行いました。

『堺南台場跡案内板』より

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資料
 

私見
堺南台場跡である大浜公園
 ▲縄張を強調 ■縄張を強調拡大
 大浜公園にやってきました。すぐにそれとわかる台場の面影はほとんど準備をしていなくても安心してみてまわることができるありがたい状態になっています。まずは南側外堀跡に足を向けてください。案内板に『元治元年堺浦海岸砲台築造図絵』がカラーで見れるようにしてありますのでその構造をしっかりと頭に叩き込みながら周辺を歩くようにすればかなり当時を偲ぶことができるはず。


 堺南台場は北台場に遅れること三年、最初はここまで立派な構造ではなかったようですが、次第に拡張されていき、最終的に稜堡式と呼ばれる縄張りとなりました。図絵をみますと北側が比較的良好に雰囲気を色濃く残しているように思えます。
 北東隅にある外堀と石垣は今もその跡を見てとることができますが、交通の往来がかなり激しいので気をつけて歩いてください。
堺南台場の北側外堀跡と石垣  そして北部の高い土塁はほぼ図絵と重ねあわせてみても驚くほど旧状を残していると思えるのですが、案内板があまりにも南の堀跡にしか触れていないのがなんとも不安にさせてくれますね(^^;
 砲台は北面から西面の土塁にかけてびっしりと配備されていたように描かれています(18門とか)が、その一方で東面には松が植わっているのが見えます。相当切羽詰っていたのか、かなり余裕があったのかどっちなんでしょうね。
大浜公園内にあるサル山  そしてぐるっと一周して元の南側外堀遺構に戻ってきました。ここは北部の堀に比べてかなり大きく、「蓮池」と呼ばれていたそうです。少し前までは当時のままの状態が残されておる反面、放置されたままということもありかなり汚れていたんだそうですね。今ではすっかり整備されてしまっていますがそれでもかなりがんばって整備いただいたのではないのでしょうか。文献によると南側外堀は内側から土居があり斜面、その下には石垣が二段の布積みで固められ、平面なテラス(通路)が用意されています。その先に堀があり、さらに外側には低い土居があり、さらに溝というすごい複雑な構造だったようです。断面が想像できましたでしょうか(笑)。(大阪春秋第65号参照)
 すでに北台場が完全に消滅してしまっている今、改めて史跡として整備しても十分見事な台場公園が完成するのではないかと思うのですが、どうなんでしょうか。天保山といいこの堺南台場といい昔の資料を見ればその姿を一目見てみたいと思うのですが、なかなか幕末台場に使う予算はないんでしょうねぇ。
 あ、そうそう公園内にはサルが飼われています。ご家族で訪問される方にはいいかもしれません。
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