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堺台場(北台場)跡


登城日:(2006.05.16)
所在地: 堺市堺区北波止町、大浜北公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
大浜北公園となっている堺北台場  嘉永六年(1853)、アメリカの使節ペリーが浦賀(神奈川県)に来航し幕府に開国をせまり、翌年9月、今度はロシアの使節プチャーチンを乗せたディアナ号が紀伊水道を経て大坂天保山沖にあらわれました。これらの事件をきっかけに、幕府・諸藩は海岸防備の強化をせまられ、品川台場鳥取藩由良台場など全国各所の海岸沿いの要地に土塁を築き、大砲を備えた「台場」(砲台)といわれる海防施設の設置、整備を盛んに行いました。
 大坂湾の警備は京都の守りという立場から重視され、まず加太(紀州藩)、由良・岩屋(徳島藩)、明石(明石藩)へ、少し遅れて大坂安治川・木津川両河口への台場の築造が命じられました。堺でもこれらの政策の一環として、安政二年(1855)までにまず堺港の小波止に台場(北台場)が建設され、それに少し遅れて大波止に南台場が建設されました。
堺新御台場図  北台場は南北約90メートル、東西最大約70メートルの規模をもったコの字形の土塁(高さ約3メートル)をもち、彦根藩が堺台場の担当となった文久三年(1863)以降の記録によれば、36貫目の臼砲(モルチール砲)を主砲に大砲8門を備えた本格的なものでした。
 明治以降、北台場の敷地は公園地となり、当初は陸軍省の所轄に属していましたが、のちに堺市の所有となり現在は大浜北公園の敷地の一部として市民の憩いの場となっています。

『堺北台場跡案内板』より

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資料
 

私見
大浜北公園となっている堺北台場  南海「堺」駅を西へ降り、旧堺港の北側を沿ってあるいていくと阪神高速湾岸線の下あたりに大浜北公園があります。そこがかつての堺台場(北台場)です。完全に以前の状態は消滅していますが、案内板があるだけでも十分ありがたいです。
 北台場は海に向かってコの字型に土塁が積まれただけのシンプルな構造でした。一方、港の南側にある南台場は改修により見事な水堀や石垣も組まれ、見事な西洋の台場に似た立派な形状は見ごたえがありますね。Web上でも自然と南台場ばかりが取り上げられるのは仕方ないのかもしれません。
 安政二年作の『堺新御台場図』を観ていますとちょうど阪神高速の下あたりに土塁があったように思えます。
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