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千早城跡

登城日:(2010.02.07)
所在地: 南河内郡千早赤阪村千早
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
千早城址碑です。 千早城の二の郭、千早神社 千早城は、北に北谷、東南に妙見谷、東に風呂谷といった周囲を深い谷で囲まれた要塞堅固な地にあって、正慶元年/元弘二年(1332)四月に楠木正成によって築城された。正成は前年下赤坂城に火を放って、身を隠していたが、この千早城で再起したのである。小城であると侮った北条方は大軍をもって攻めるも楠木勢にさんざんに打ち負かされ、攻城戦は長期戦となった。その間に、播磨では赤松則村、四国では土居・得能、九州では菊池・阿蘇などの諸氏が起こり、やがて鎌倉幕府は滅亡することとなった。
 百日あまりの籠城戦を見事に戦いぬいた千早城は、その後も楠木氏の拠点として存続するも、明徳三年(1392)畠山基国によって攻められ落城、60年余りの歴史を終え廃城となった。
歴戦の猛者、藁人形です。 急な石段が続く  元弘二年(1332)楠木正成が構築し、翌年五月まで百日間、藁人形等の奇策をもって鎌倉幕府軍の攻撃に堪えて建武中興の原動力となった難攻不落の名城である。
 標高約660メートルで、城の南(妙見谷)、北(風呂谷)、西(大手口=現在地)の三方は急斜面で、府道との比高は150メートル。東方だけが尾根伝いに金剛山に通じる天然の要害である。
 五百数十段の石段を登ると四の丸があり、それより本丸までの奥行が約300メートル、その比高は約30メートルである。
 太平記に、敵は百万騎、身方は僅かに千人足らずにて「誰ヲ憑(たの)ミ何ヲ待共ナキニ城中ニコラヘテ防ギ戦イケル楠木ガ心ノ程コソ不敵ナレ」とある。(『千早城跡案内板』より)
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資料
 

私見
四の郭にも藁の兵士が 四の郭に建つ休憩所  千早城へは金剛山のロープウェイ手前のバス停「金剛登山口」で降り、千早神社への石段を登っていくことになります。車だとその近所にある有料駐車場に停めることになります。こんな山奥で大軍に囲まれて戦っていたのか?とピンと来ないままに登城していくことにします。
 まっすぐに伸びる石段を見上げると気遅れしてしまいそうになりますが、こんな階段がなかった当時はかなり堅牢なお城だったでしょうねぇ。とは言うものの、石段をひたすら登っていますとダメージが大きいですので、できるだけ土を歩こうと道の脇を選んでしまいます。
 そうこうしているとようやくたどり着いた先は、おでんを販売している売店がある四の郭跡でした。前回訪れたのは約10年前でしたが、ここだけは時間が止まっているかのようにそのまんまであるような気がします。店内には古い缶ビールが並べてディスプレイされているのもシュールですね。すでに四の郭ということで妄想モードで訪れたいところでしたが、すっかり癒されてしまいました。先を急ぎます。
大堀切跡 神社の奥は主郭、神の領域です。  千早城は、ここから真直ぐに郭が並んでいる極めてシンプルな構造です。一旦下へ下ってからまた階段で神社境内へと続くところが大きな堀切であった場所ですね。そして三の郭、二の郭が千早神社 境内です。城址碑もありますので、ここで写真を撮り、そして肩すかしをくったような不完全燃焼な状態で元来た道を帰っていくというのが一般的なのでしょうかね。私も前回はそうでした。しかし神社社殿の奥には主郭があるのです。千早城を攻略するにはその先に行かねばならない!のですが・・残念ながら神域ですので決して入ることができません。このもどかしさは丹波亀山城を思い出されますが、神様には勝てません。諦めて斜面を見上げつつ、南側からぐるりと回り込んでいくことにします。主郭には石積みも残っているようですので、注意深く確認しながら進むことにします。
ここから主郭へ・・いや絶対ダメ 楠木正儀の墓  やがて主郭の南側に出ました。視界が開けましたので、改めて千早城の攻防戦を想像してみます。いや、もう無理(笑)。やっぱり私にはこの時代には思い入れが不足しているようです。ひっきりなしに通り過ぎるハイカーの皆さんを眺めながら、今回も不完全燃焼なのでした(^^;。おそらくこれは、周囲の砦を攻めて、そこから千早城を眺めたほうがいいのかもしれません。
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