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八尾城跡
登城日:(2001.08.28)
所在地: 八尾市本町七丁目
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
近鉄駅前にたつ八尾神社。  南北朝期に南朝に属した、八尾別当顕幸の居城跡と考えられている。別当顕幸は大和川南岸の小山城の志貴右衛門や南朝方と対立抗争していたが、正慶二年(1333)、南朝方支持に変わり、赤坂に移った。これ以降、八尾城は北朝方の支配化にあったようだ。
 以後戦国時代になると、河内国は高屋城(羽曳野市)、若江城(東大阪市)の両城が、南と北の最重要城郭として活用され、八尾城はその戦略的位置から次第に歴史から名を消していった。
 八尾城が再び歴史の舞台に登場するのは、織豊時代、池田丹後守教正の居城としてである。池田教正は、天正元年(1573)、織田信長が三好義継を攻めた時、義継の老臣の一人であったが、野間・多羅尾両氏と共に信長に内応し、このため義継は自害して果てた。
 信長の石山本願寺攻めが完了すると、池田教正は若江城から八尾城へと居城を移したと考えられている。八尾城はこのとき池田教正が古城を再建したと思われるが、天正十二年、長久手の合戦ののち美濃に移封となり、以降の八尾城は再び歴史から名を消してしまった。

「日本城郭体系12」新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
正面奥に「矢尾城址」碑。  近鉄八尾駅近くの八尾神社の境内に八尾城跡の石碑が建てられていました。八尾城はずいぶん前からその所在地についての議論が戦わされてきていました。最近になってわかったっていうのはなんか不思議ですよねぇ。400年前のことなのに・・。
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