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名護屋城跡登城日:(2007.10.14) 所在地: 佐賀県唐津市鎮西町名護屋 |
歴史 |
名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の為に天正十九(1591)に築城した出兵拠点である。玄界灘に向かって突き出した標高90メートルの台地上に造られたこの城は面積約17ヘクタール、当時では大坂城に次ぐ巨大なものであった。築城にあたって加藤清正、小西行長、黒田長政らが普請し、九州大名らが築城にあたったが、その工期は数か月という異例の短期間でその主要な部分を完成させたという。 文禄元年(1592)の文禄の役では、二か月にして加藤清正らは朝鮮半島を席巻、明国境近くまで攻めよせたが朝鮮水軍の李舜臣の反撃や朝鮮民衆蜂起、日本軍内の内紛など次第にその旗色は悪くなり、戦線は後退せざるを得ない状態となる。その間、大政所の病や、秀頼の誕生などにより秀吉は大坂に戻ることになる。 慶長になると、進展のない戦に対し講和の方向で話が進んでいたが明との間での交渉がこじれ、やがて慶長二年(1596)再び戦が始まった。(慶長の役) 翌三年、豊臣秀吉の死によって戦は終わりを告げ、遠征していた諸軍に帰国の命が下りた。名護屋城もその役目を終え、慶長七年から同十三年にわたって寺沢広高の手によって唐津城築城の際の用材として新たな役割を得る。城は破却され廃城となった。 『日本城郭体系』新人物往来社刊参照
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資料 |
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私見 |
名護屋城へと車を走らせていますと、あちこちに気になる地形が見えてきます。周囲は約130もあると言われる各大名たちが構えた陣屋、陣城がひしめきあっています。1日じゃとても廻れないですね。 とりあえず情報を得るため名護屋城博物館に立ち寄ります。そして名護屋城へ。 復元されているとはいえ、あちこちに残る石垣の状態は廃城となった城跡の物悲しさを感じずにはおれませんね。大手を歩いて東出丸に出ます。そこから見下ろす景色は今でこそ住宅が立ち並んでいますが、かつては壮観なものだったんでしょうね。しかし鯱鉾池の内側にも民家がたっているのには驚きました。 三の丸を通り本丸へとあがってみます。ちょうど本丸は発掘調査後の状態だったのか小さな丸い石がごろごろしています。そして天守台へ。ここまでの道のりだけでもその規模の大きさに圧倒されていましたが、天守台から見下ろした先に広がる二の丸や遊撃丸にはただただ呆然と見てしまいました。天守台に腰を下ろし、しばらく時間が経つまま寝ころんでいましたが、ここから朝鮮へと出立する船団を見降ろしたり、周囲の陣城の様子を眺めていたのかと思うと感無量です。 ただ、あとで知りましたがこの名護屋城は天正十九年頃に突貫工事で造り上げ、その後秀吉の死後破城となったという単純なものじゃないんですね。至るところに拡張、改修のあとが見られ、その時期がいつなのかを研究されているんだとか。 最初は圧倒されっぱなしの名護屋城でしたが、次回訪問する際には細かく復元された様子や石垣を確認しながらじっくりと見て回りたいと思います。周囲の陣城を見て回る際にも思いましたが、季節は下草がなくなる晩秋以降がよさそうですね。ただその季節はイカがどうなのかまでは知らないですが・・(^^;
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