伊奈氏屋敷跡 登城日:(2002.06.02) 所在地: 北足立郡伊奈町字小室 |
歴史 |
天正十八(1590)年、関東郡代伊奈忠次は、周囲を泥深い湿田に囲まれたこの台地に、陣屋を構え、その後の関東地方の幕府直轄地を支配する拠点としました。寛永六(1629)年に、三代忠治が川口市赤山に陣屋を移すまでの間、この地が地方支配の中心となっていました。 屋敷跡の規模は、東西350m、南北750mです。陣屋が構えられた頃の様子は明らかではありませんが、当時を偲ばせる土塁や堀が各所に保存sれているほあか、見通しを悪くするためにわざと折り曲げた道などが、現存しているとともに、「表門」・「裏門」・「蔵屋敷」・「陣屋」などの呼称も伝承して残っています。 ◆「裏門跡」伝承地と「障子堀」 ここは、伊奈氏屋敷跡の「裏門跡」と伝えられているところです。近年の発掘調査によって、堀を折り曲げて、「虎口(出入口)」をつくっていたことがわかりました。公園内の縁石の部分が堀の位置を示しています。発掘された堀は、幅が約5m、深さは約2mあり、堀の中には障子の桟のような仕切り(畝)が作られているので「障子堀」と呼ばれています。畝の高さは約1.5mありました。「障子堀」は、武者が掘を越えたり、堀の中を移動したりすることが難しいように工夫されたもので、戦国時代の築城技術がよくあしらわれています。 ここは、初代関東郡代伊奈熊蔵忠次の陣屋跡です。伊奈氏は信州伊奈(今の長野県)の出身で、忠次の祖父忠基の代に徳川氏に仕え、三河国小島(今の愛知県西尾市)の城主となりました。忠次は善政をしき、とくに豊臣秀吉の小田原攻めには、主君家康の命で軍の輸送などにあたり戦功をたてました。 天正十八年(1590)徳川家康が江戸に幕府を開くに及んで忠次は軍功によって三河国小島の旧領と武蔵国小室鴻巣領一万三千石を賜り、関東郡代と従五位下備前守に任ぜられました。(大正元年正五位を追贈)関東郡代になった忠次は、ここ(伊奈町小室丸の内に陣屋を構えて関八州の天領(幕府直轄地)を治め検地の実施仲山道その他の宿駅の整備加納備前堤川島大囲堤の築堤など大きな功績をあげました。本県は昭和九年三月重要史跡として指定し保存にあたっています。 『伊奈氏屋敷跡案内板』より
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資料 |
私見 |
伊奈陣屋にきました。ここは埼玉県指定史跡となっており、事前に入手した資料や本からは見事な障子堀や土塁がみられ、遺構がよく発掘されたところだと期待をしていってみました。 が、季節が悪かったのでしょうか。藪がひどくて障子堀どころか、なにがあるのかどこまでが陣屋内なのかまったくわかりません(T_T)。案内板からは「県が大切に保存している」と読み取れたので、夏草や藪くらいは綺麗に刈り取ってほしいもんだ、と勝手なことを重いながら周辺を散策してみたのですが、どうやらこの辺の住民のかたは県が指定史跡としたことにたいして反対運動を起こしているようでした。まったく整備されていないのも地域住民のかたの協力があってのたまものでしょうから、現在のこの状態はそういう意味ではたしかになるほどと思わせてくれます。 せっかく史跡として指定したのですから地域住民のかたともうまく話をして、立派な観光資源とでもしていただけたら、と思うんですけどねぇ。
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