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鐘撞山城跡
登城日:(2003.04.12)
所在地: 加須市油井ヶ島
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 左側一面藪とそれに沿って堀跡が続いています。  鐘撞山は南東に沼を控えた平城で要害の地となっていた。約二万六千四百平方メートルの面積を残し、土塁・空堀・水堀の一部が現存している。「新編武蔵風土記稿」に「相伝ふ猪俣小平太則綱が城蹟と云、鐘つき山と呼ぶ、今は山もなく、陸田となりて、城跡のさまは見えず」とあり、築城した人物や年代等は明らかではない。鐘撞山の攻防については、永禄六年(1563)、上杉謙信が松山城救援のため出陣したがおよばず、転じて北条方の騎西城を攻めた時、この鐘撞山も同時に攻撃された。攻撃が急だったので、館中の兵はしきりに鐘を鳴らし騎西城に救いを求めたが、騎西城も謙信の本隊に攻められていたので鐘撞山を救援することができず、館兵は甲冑兵器を丘に埋め逃れたという(「鐘撞山之記」)。さらにここから矢の根・鉄砲の玉・大身槍・陣鍋が掘り出された。

『鐘撞山城跡案内板』より

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資料  

私見 一面藪とそれに沿って堀跡が続いています。  東武伊勢崎線「花崎」駅から何分くらいでしょうか・・実はすでにこの時点で憔悴してたのでよく覚えてません(笑)。
 鐘撞山城跡がありますのは周囲がだだっぴろい田野が広がる中の藪の中です。かなり大きいので分かりやすいかもしれません。私は遠目から一発で当りをつけたところがズバリでした。
 さて城跡なんですが、加須市の史跡碑が裏手の道路脇に建てられており、そこを起点にして南に空堀がまっすぐに伸びています。堀の内部はびっしりと竹(なのか笹)が生えておりとても分け入って入ることなんてできなさそうです。というか私有地らしいのでその時点で駄目なんですけどね(^^;。
 碑があるところから空堀沿いにあぜ道を歩いていくと突き当たりのところに案内板が用意されています。半分藪に埋まっているような状態ですのでもう少し分かりやすいところに設置すればいいのに。と誰しもがつっこむところでしょうね。ここにも堀跡が続いているのですがやはりこの案内板が設置されているところも足を踏み込めるような状態ではありません。ここから騎西城の模擬天守の姿を探しつつ、かつての攻防戦を想像するより仕方がなさそうでした。
 それにしてもこの藪、今でも何かでてくるんじゃないかなぁと期待させてくれる藪ですね。
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