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騎西城跡 登城日:(2003.04.12) 所在地: 北埼玉郡騎西町根古屋 |
歴史 |
![]() 永禄六年(1563)には城主小田助三郎が守る城を、上杉影虎(謙信)が攻め落とした。 天正十八年(1590)、松平康重が一万石で城主となった。その後、大久保忠常・忠職の移封に伴い廃城となった。 発掘調査では、全国的にも珍しい障子堀が見つかり、堀からは、多量の陶磁器や兜・槍・下駄・漆椀などが出土している。 これらは、当時の武士の生活を偲ばせる貴重なものである。 ◆土塁の移り変わり 江戸初期の絵図を見ると、東に大手門を配し、二つの曲輪・天神曲輪・馬屋曲輪・二の丸と鉤の手状に構成され、本城(本丸)へ容易に攻め込まれないような構造となっている。さらに押し寄せる軍勢や弓矢・弾丸に対し、防波堤となるべく土塁(黒い太い線)が大手から本城までの全周を、延々と巡っていたことがわかる。 寛永九年(1632)に廃城となった後の衰亡は著しく、寛保年間(1741〜44)には本丸・二の丸の土塁が崩され、安政年間(1854〜60)に至ると城跡の竹林が開墾され、江戸末期にはほとんど畑となった。明治・大正期には、図のようにT字形(灰色)に残るのみとなり、県道が城跡を貫通した後の土塁はいっそう小さくなり、昭和四十年頃の写真にわずかにその名残りをとどめている。 現在、土塁はここに残るのみで、当時の姿を伝える西側の高い部分が旧来の土塁(高さ3m)、こちらの低い部分が在りし日の騎西城を偲ぶため、平成十年に復元延長したものである。 ![]() 発掘調査によると、土塁の高さは三メートル以上、下幅は十メートル以上あったと思われる。断面を観察すると、崩れにくいように灰色土と黄色土を交互に叩き固めている。また、積み方が一様でないことから、土塁築造後、拡張し修復されたものと思われる。 騎西城は、越後の上杉謙信、小田原の北条氏にとって関東支配の前線基地として重要であった。そのため、幾度か攻められ、それを凌ぐため堀はより広く、土塁はより高く築かれた。南に幅50mの障子堀をもつこの土塁は、攻める者に圧倒的な威圧感を持って対峙したであろう。 ◆土塁とは 土居ともいい、敵の侵入を防ぐために堀を掘った土を盛り、土手状に築いたものである。古くは弥生時代のものが佐賀県吉野ヶ里遺跡で確認されており、ムラの周囲に堀を巡らし、その外側に土塁が築かれている。 その後、古代には大宰府を守る水城に、中世に至ると武士の館や城にさかんに用いられた。築城法の変化により、江戸時代ではその多くが、より堅固なる石垣へと変わっていった。 ◆軍記物に見る騎西城の攻防 松山城(現吉見町)救援に駆け付けた上杉輝虎(謙信)は、すでに落城との報に接し、怒りの矛先を小田助三郎の守る騎西城へ向けた。 騎西城は四方を沼で囲まれた要害無双の城で、勝敗は容易に決しなかった。 輝虎は高台に登り、城内を窺った。そこには、本丸に架かる橋を往来する婦人の姿があった。そこで、本丸・二の丸に城兵がいないことを察し、夜襲を画策した。 筏を組み、竹竿につけた提灯を二の丸の中に差し入れるや、塀の板を一斉に叩き、鬨の声をあげた。二の丸に籠もる女・童は悲鳴をあげ、狼狽した。 大手口にいた城兵はこの騒ぎに動揺し、一気に攻め込まれた。城兵も勇猛果敢にこれに応戦したが、敢えなく城は落ちた。時に永禄六年(1563)、春まだ浅い三月のことである。 『騎西城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
![]() 福祉センター脇を走る県道を歩いてきたんですが、まずは左手に高い土塁が視界に飛び込んできました。上には城址碑も確認できます。が、下部分は近年補修(?)したのか、お粗末な石垣がくっついています。土塁保護なら仕方ないですが・・。 が、案内板の文章を読んでいますと騎西城は土塁もさることながら堀、とりわけ障子堀が有名だったんですねぇ・・。障子堀といえば山中城や、伊奈陣屋、岩槻城、小金城なんかが思いつきましたが貴重なものだと認識しています。その保存にもっと力を注いでいただきたかったなぁと思いました。 あとは模擬天守を撮影して、鐘撞山城へと向かったのでした。ってこの道のりがやけに遠かったんでくたくたになりましたが・・。
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