HOMEへ  

岩槻城跡
登城日:(2002.06.02)
所在地: 岩槻市太田ニ一、岩槻公園
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 岩槻城堀跡  岩槻城は室町時代末に築かれた城郭です。築城者については太田道灌とする説、父の太田道真とする説、そして後に忍城主となる成田氏とする説など様々です。
 永禄十年(1567)三舟山合戦(現千葉県富津市)で太田氏資が戦死すると小田原城の北条氏が直接支配するところとなりました。
 北条氏は、天下統一を目指して関東への進出を図っていた豊臣秀吉と対立。やがて天正十八年(1590)5月20日からの豊臣方の総攻撃を受けた岩槻城は2日後の22日に落城してしまいました。同年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼすと徳川家康が江戸に入り、岩槻城も徳川の家臣高力清長が城主となりました。
 江戸時代になると岩槻城は江戸北方の守りの要として重要視され、幕府要職の譜代大名の居城となりました。 岩槻城城門跡  室町時代から江戸時代まで続いた岩槻城でしたが、明治維新後に廃城となりました。城の建物は各地に移され土地は払い下げられて、およそ400年の永きにわたって続いた岩槻城は終焉の時を迎えました。
 岩槻城が築かれた場所は現在の市街地の東側で、元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸、二の丸三の丸などの主要郭が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪が、沼地をはさんだ南側に新曲輪がありました。主要部の西側は堀によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていました。また城と城下町を囲むように大構が造られました。
 城というと、一般的には石垣や天守閣がイメージされますが、岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って堀を造り、土を盛り上げて土塁を造るという、関東では一般的な城郭でした。
 現在では城跡のなかでも南端の新曲輪・郷冶曲輪跡(現在の岩槻公園)が県史跡に指定されています。どちらの曲輪も戦国時代末に北条氏によって造られた出丸で、土塁・空堀・馬出など中世城郭の遺構が良好に残されており、近年の発掘調査では北条氏が得意とした築城術である障子堀が見つかっています。

 岩槻市太田を中心に築造された平城で、一名、白鶴城ともいう。長禄元年(1457)太田道灌の父、資清(一説には道灌)が足利成氏(古河公方)に対して築城したと伝えられるもので、城内は69,300平方メートルあり、川越城、忍城とともに県内三名城の一つに数えられていた。
 城の北東から南東部にかけては、元荒川の流れを自然の外堀として、台地と低地を巧みに組み合わせて利用し、西側は高さニ〜三メートルの土塁が城下町をつつんでめぐらされていたが、現在は、わずかに新曲輪と部分的に残る空堀と土塁が当時の面影を残している。
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、浅野長政らに攻められ落城するまで太田氏が城主であったが、以後、江戸時代を通じて、高力・青山・阿部・板倉・戸田・松平・小笠原・永井・大岡などの譜代大名が居城し、明治四年に壊された。
 なお、この城跡は大正十四年三月三十一日に、県指定史跡となっている。

『岩槻城跡案内板』より

【戻る】

資料  

私見 岩槻城跡  岩槻城は、現在は城跡公園としていまや完全に地域に溶け込んでしまっています。城内には野球場や、テニス場もあって実に贅沢な場所でスポーツをされている方が大勢いました(笑)。
 ところで、かつての岩槻城の規模が書かれた図が駐車場の近くに建てられていましたが、ほんとに堀や、沼ばっかりに取り囲まれてて、水城といってもいいんじゃないのかと思ってしまうほどですね。
 遺構は土塁、空堀、馬出し(これは見るのを忘れてました)や城門などがあり、城跡公園としてすっかりかつての姿を失ってしまっている他の城と比べても、驚くほどよく残っているんですよねぇ。
【戻る】