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山中城跡
登城日:(2000.08.27→2008.12.14)
所在地: 三島市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

昭和58年当時の山中城
「国土画像情報(カラー空中写真)」
国土交通省より
歴史
山中城といったらこれですよね、畝。決して降りてはいけませんよ。 山中城、三の丸堀跡
 史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築したものである。
 やがて天正十七年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年三月、豊臣軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。  三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和四十八年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。その結果、戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。
 時に掘や土塁の構築法・尾根を区切る曲輪の造成法。架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の造形を巧みにとらえれた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水地・井戸等・山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。

◆田尻の池
 東側の箱井戸と田尻の池とは、一面の湿地帯であったが、山中城築城時、盛土(土塁)によって区切られたものである。
 山城では、水を蓄える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池のひとつであったと考えられている。
 しかも、西側は「馬舎」と伝承されているところから、この城の馬の飲料水、その他に用いられたものと推定される。
 築城時の池の面積は約一四八平方メートルであり、あふれた水が三の丸堀に流れ出ていたようである。

◆三の丸堀跡
 三の丸の曲輪の西側を出丸まで南北に走るこの堀は、大切な防御のための堀である。
 城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸跡は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて、二重堀としている。
 中央の畝を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。
 この堀の長さは約百八十m、最大幅約三十m、深さは約八mを測る。

随分と浅くなってしまっていますが、往時はどんな深さだったのでしょうか。 山中城、西の丸そばの障子堀
◆西の丸
 西の丸は三四〇〇uの広大な面積を持つ曲輪で、山中城の西方防御の拠点である。
 西端の高い見張台はすべて盛土をつみあげたもので。ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならしている。
 曲輪は全体に東へ傾斜して。東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。
 自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端をみることができる。

◆西の丸見張台
 西の丸見張台は下から盛土によって構築されたものである。
 発掘の結果、基底部と肩部にあたる部分を堅固にするために、ロームブロックと黒色土を交互に積んで補強していることが判明した。
 標高は約五八〇mで、本丸の矢立の杉をはじめ、諸曲輪が眼下に入り、連絡・通路上の重要な拠点であったことが推定できる。
◆西の丸堀
 西の丸堀は、山中城の西方防備の拠点である西の丸にふさわしく、広く深く築城の妙味を発揮しており、堀の末端は谷に連なっている。
 西櫓と西の丸の間は、中央に太い畝を置き、交互に両曲輪にむかって畝を出しているが、西の丸の北側では東西に畝をのばして堀内をより複雑にしている。
 このように複雑な堀の構造は、世に伝えられる「北条流堀障子」の変形であり、学術上の価値も高いものである。


畝が破壊されてしまってます。でもこれはこれでいいなあ。 広大な山中城本丸跡
 史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(1560年代)小田原防備のために創築したものである。
◆本丸堀と櫓台
 本丸と二の丸(北条丸)との間の本丸西堀は、土橋によって南北に二分されている。北側の堀止めの斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。堀底や堀壁が二段となっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。なお、箱堀の堀底からは兜の「しころ」が出土した。
 土橋の南側は畝によって八区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。堀底から本丸土塁までは九メートルもあり、深く急峻な堀である。堀の二の丸側には、幅三○〜六○センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬走りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。一般的に本丸の虎口(入り口)は、このように直線的ではないが特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。
 説明板左手の、標高五八三メートルの地に二の丸櫓台(東西一二メートル、南北一○メートル)がありそれを復元した。
◆箱井戸跡
 ここは古くから箱井戸と伝承されていた所で、発掘調査の結果、箱井戸と西側の田尻の池一帯は湿地帯であったことが確認された。
 箱井戸と田尻の池の間は、土塁によって分離され、排水溝によってつながれていた。これは湧水量が多く、一段高い箱井戸から田尻の池へ水を落とすことにより、水の腐敗や鉄分による変色を防ぐための工夫と考えられる。箱井戸の水を城兵の飲料水とし、田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場等として利用していたのであろう。
 現在、箱井戸には睡蓮が植えられ、花の季節(七〜八月頃)には観光客の目を楽しませている。

山中城の水の手、箱井戸跡 綺麗に整備されていますね
◆出丸御馬場跡
 山中城の出丸は、通称岱崎出丸と呼ばれ、標高547〜557メートル、面積二万四百平方メートルに及ぶ広大な曲輪であり、天正十七年(1588)、秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ増築された曲輪である。
 ここは古くから御馬場跡と伝承され、土塁で東側と北側を守り、西側は深い空堀につづき、南側は急峻な谷で囲まれた岱崎出丸最大の曲輪である。
 曲輪内は、本丸と同様式の二段構築でつくられている。建物跡については確認されなかったが、土塁上からは田方平野を眼下に見渡すことができ、出丸防衛上の拠点であったものと推定できる。
◆岱崎出丸「一の堀」
 第九次発掘調査(昭和五十六年度)により検出された一の堀は、出丸全域を鉢巻のようにめぐるのではなく、先端のすり鉢曲輪から西側の中腹を箱根旧街道の空堀まで続くものである。第九次調査では、指定地内の約150メートルの間に、17ヶ所の畝を確認することができた。完堀された一の堀の第三区画はローム層を掘り下げて畝を残し、70度前後の傾斜角をもってたちあがっている。したがって堀底からすり鉢曲輪の土塁までは、斜距離18〜20メートル前後の急峻な勾配がつくわけである。
『山中城跡案内板』より
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資料 【地図を表示する】
 

私見
山中城、1日かけたいですね。 南北に長く延びる山中城の岱崎出丸  八年ぶりの山中城でした。以前は8月に来ましたので緑が美しくてよく整備された城跡公園といった印象が強く残っていたのですが、今回は12月ということで私の中での緑のイメージは完全に消えてしまっており、土が剥き出しの障子堀や曲輪が残る山中城は荒々しい戦うお城といった印象を受けました。
 天気はあいにくの雨で、傘をさしながら写真を撮るのは難儀ですがこればっかりは仕方ないですね。いざ城域に足を踏み込むと雨のことは気にならなくなり、ただあちこちを忙しく走り回っていました(^^;。来たばっかりでしたが「また来たいな」と思ってしまうのはとても今回だけじゃ見足りないというのがわかるからでしょうね。
ところで、以前撮影した写真と見比べてみますと少し堀の畝が削られてしまっているようにみえます。たった8年ですが肉眼でもはっきりと違いが見てとれるほどですので、やはり時折修復をしてやらないといけないのでしょう。大変だと思いますが頑張っていただきたいです。
 今回の目玉は岱崎出丸でした。以前行かなかったのをほんとに悔やんでおりましたので、本丸ほか一通り見て一号線に戻ってきた時は、「いよいよメインイベントだ」的な期待感たっぷりですよ。出丸なのに(笑)。出丸といってもその規模は想像をはるかに超えていました。わかりやすくなるよう、左上に国土交通省の空中写真を抜粋いたしました。昭和五十八年のものですので、ちょうど一の堀が発掘されて2年後になります。五十三年度の写真だとまったく見えていなかった畝がご覧のようにくっきりと確認できますね。それにしても出丸といってもこのでかさ、堅牢さはなんなのでしょう。
岱崎出丸の一の堀 特徴的なすり鉢曲輪、中心部がへこんでます。  秀吉に備えて突貫工事を行ったためでしょうか一部未完成の曲輪もありましたが、それでも実に細やかないい仕事をされていますよ、ほんと。ところですり鉢曲輪ってどういう用途のためにあぁいう形状になっているんでしょうね。一瞬井戸跡かとも思いましたが、奥の武者溜りと繋がっていることから兵を隠すための仕掛けだったのでしょうか。
 一通り見終わって引き返していると、一の堀と反対側斜面では畑が作られていました。正直驚きましたが、よく見れば畝がいくつもつくられており、ちょうど畝状横堀といったところです(^^;。そっか豊穣流とはこのことか、あいやすみません。それが言いたかっただけです。
 写真を撮り飽きない山中城、今度は春先の天気がいいときに来られればいいなと思います。でも何年後になるのやら・・。
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