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嶬峨城跡


登城日:(2005.09.19)
所在地: 甲賀市水口町嶬峨
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
郭の周囲にめぐらされた土塁に登ってみる  嶬峨城は儀俄氏の居城である。儀俄氏は、蒲生氏の分流権五郎俊光を祖とし、元久元年に観学院領嶬峨庄の下司となり、儀俄氏となった。
 長享元年(1487)には、儀俄越前守は鈎の陣で戦功をたてたことにより、甲賀五十三家に数えられるようになった。永禄十一年(1568)に主家である観音寺城六角氏が信長に滅ぼされると、蒲生氏が信長の配下に属したために儀俄氏も安堵となるが、のちの天正十三年(1585)に、甲賀破儀の為に城を没収となり、滅亡していった。

『日本城郭体系11』新人物往来社刊参照

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資料
 

私見
郭の南側の城門跡です。  嶬峨城を探すのはかなり大変でした。というのも最初に聞いた方の情報が間違っていたためなのですが、嶬峨の南東部、滋賀ゴルフクラブの敷地の南側をイメージしてその近くのお寺や神社をみてまわられたほうがいいと思います。
 城跡がある一帯は山屋敷、備後城、そして堀田外記の陣屋などもあるようですので歩きまわればいろいろと遺構に遭遇できるのかもしれません(?)。
 神社への石段をあがると堀田外記の名が彫られた碑がありました(くぅ、写真を撮らなかった・・)。その奥に踏み込み、10メートルほど行きますと堀切が現れます。そして目の前には土塁が視界をさえぎります。高さ3メートルほどの土塁の上にあがりますとようやく全貌がわかるようになってきました。土塁が同じ高さを維持したまま郭全体を囲んでいるのです。そして外側には掘跡まで確認できるという見事な状態です!
 城跡は単郭なのでしょうか、南側には土塁が途切れていますが城門跡らしいです。郭内こそ木々が邪魔して視界がよくありませんが、郭に下りてみますと周囲を囲む土塁に圧倒されて不安な気持ちになりますが、往時は堅牢なものだったのでしょうね。
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