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鎌刃城跡登城日:(2005.05.15) 所在地: 米原市番場 |
歴史 | ![]() ![]() 鎌刃城は江南の六角氏と江北の京極氏や浅井氏の国境に立地していることから、「境目の城」として室町時代に築城されたと考えられます。文献からも文明四年(1472)以降に登場し、六角氏方の今井氏が、京極氏方の堀氏の守備する鎌刃城を攻めたことや、堀氏が後に六角氏方に降り、再入城したことなどが知られています。 堀氏は元亀元年(1570)同属の樋口氏とともに織田信長に降り、翌年五月六日には浅井長政に攻められています。この時横山城(長浜市)を守備していた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が応援に駆けつけ、長政軍を撃退したことが「信長公記」に記されています。 ![]() ![]() なお城跡南東にある清竜滝付近には水の手と伝えられる岩盤をくりぬいて作られた石桶も現存しています。 ![]() 鎌刃城の中心部となる曲輪で、その周囲は石積みによって固められています。曲輪内部では、主殿の一部と思われる縁側を有する礎石建物跡が確認されており、格式の高い建物が存在していたと思われます。曲輪の北辺には石段と石積みで構成される枡形虎口(正門)が設けられており、礎石建ちの門跡が検出されました。また、主郭北側斜面では虎口に至る道路遺構の存在が明らかになりました。これは、”城道”と呼ぶにふさわしい本格的なものであり、全国的に見ても中世城郭で確認された例はほとんどありません。安土城をはじめ、後の近世城郭に見られる”大手道”に相当するものと考えられ、城郭史を考える上でも大変貴重な遺構と言えるでしょう。 虎口の他に曲輪の北東隅にも出入口の施設が設けられていたようで、そこに至る石段が今も残されています。ここは、日常の通用口として機能していたと考えられます。 曲輪の南辺及び東西辺の一部には、石塁が存在しています。この石塁は周辺の地面を掘り下げて削りだした地山の高まりの内側と外側に石積みを施して構築されています。破城(城割り)によって上部を壊されていますが、当時の石塁の高さは4メートル近くに及んでいたと推測され、その防御機能の高さが伺えます。また、南辺の石塁には主郭内部から上に上がるための石段が設けられており、上部幅が3メートル以上と非常に幅広いため、何らかの建物が存在していた可能性があります。 これらの貴重な遺構は、極力現状での保存と公開を心がけていますが、安全性に問題がある部分や遺構の残存度が悪く当時の姿が判りにくい部分については、保存整備工事を実施して部分的に想定復元を試みています。 『鎌刃城跡案内板』より
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資料 |
私見 | ![]() 道幅の細い尾根上を歩いていきますとすぐに堀切が現れます。この鎌刃城の特徴として急峻な尾根の上を7つの堀切が作られているのです。落ちたら怖いなぁ(そりゃそうだ)と思いつつ慎重に進んでいきますとやがて大きな郭につきました。南側に土塁が作られています。ここからは西へと延びる郭群と、北側には主郭とさらに北へ延びる郭群がありますが後者へと歩みを進めてみます。 主郭に出ました。周囲に石積みを持った城内最大の郭には北側に枡形虎口を持っています。ほんとはもっと石垣があったようですが発掘調査後埋め戻されてしまったようです(;_;)。 ![]() ![]() ここまで豊富な量を誇る石垣を見てきましたが実は北郭の斜面下には大石垣と言われる石垣が残っているんです。当然見ないといけませんので斜面を急いですべり降ります。高さ4メートル、長さ30メートルと書かれていますから城内でも最大箇所だといえますね。なんでこんなところに石垣が作られているのかはよく分かりませんが、江北と江南との境目に位置することからここまで堅牢で立派な山城と発展していったということなのでしょうか。すさまじい合戦を想像させてくれますねぇ。 と、ここまで見て佐和山城への集合時間を過ぎてしまってたことに気づいて慌てて撤退しました。もう少し時間があれば西側の郭群と連続した竪堀なども見ることができたのですが・・・。ここはまたいつかじっくりと見て回りたいなと思います。それまでにあの林道がもっと整備していれば嬉しいのですが・・(^^;。普通車は底を擦ってしまいますのでやめたほうがいいですよ。ほんと恐ろしいですから。
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