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津和野城跡登城日:(2006.11.27) 所在地: 鹿足郡津和野町田二穂 |
歴史 |
この出丸は、慶長五年(1600)、吉見氏に代わり津和野へ入城した坂崎出羽守直盛が津和野城改築の時に築いたもので、築城の指揮を直盛の弟で、家老浮田織部がとったことから、別名「織部丸」ともいわれている。 出丸が、本丸を守るための戦略上、防塁としての役割は必要不可欠であり、特に坂崎氏の時代には鉄砲に頼る実践的な戦術が進み、この場所を強化する必要があった。 出丸あたりは東西約18メートル、南北約44.5メートルあり、門を入ると右に番所があり、石垣に沿って堀が巡らされていた。また出丸門から本丸東門までの距離は約244メートルある。 当城跡は、初め一本松城といい、のち三本松城と改めた。全国でも有数の山城跡である。築城は弘安の頃この地の地頭として鎌倉幕府から補任された吉見三河守頼行の永仁三年(1295)に始まり、二代頼直の正中元年(1325)に完成したと伝えるが、まだその頃にはいまのような構えではなかったろう。吉見氏はこの地で十四代続いたが、慶長五年(1600)関が原の役にあたり、毛利氏に従って西軍に味方したため、敗れて長州へ移り、ここは翌六年、坂崎出羽守成正が入部した。坂崎氏は、従来の搦め手を大手に改め、北方に出丸織部丸を築くなどして城の構えを整えたが、かの千姫事件によって改易され、あとへは元和三年(1617)、因州鹿野から亀井政矩が移封された。 亀井氏はこの地で十一代続き、隠岐守茲監に至って明治維新を迎えるが、その間、延宝四年(1676)の大地震によって城郭が大被害を受けたため、これをその後四度にわたって修理している。したがって、いま見る石垣の大部分は、むしろこの時期の修復に成るものと見るのが妥当であろう。 本丸は海抜三百六十七メートル、近世の絵図面などによると本丸を中心に城門六、櫓が十四あったことがわかるが、天守は貞享三年(1686)、落雷のために焼失してから、ついに建つことがなかった。その他の建物も明治七年(1874)にはことごとく解体され、今ではただ石垣と多くの曲輪跡とが往時を偲ぶよすがとなっている。 ◆中世山城 津和野三本山城跡 文永十一年(1274)、弘安四年(1281)の元(蒙古)軍の北九州・北浦への来襲を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。頼行は弘安五年(1282)家来とともに能登から木曽野(津和野町北西部)に地頭として入り、永仁三年(1295)この城山山脈に築城を始めた。 以後吉見氏は十四代300年間、随時増築補強を行い、城山山脈の諸所に曲輪・堀切・竪堀・横堀などを構築して堅固な中世山城(一本松城あるいは三本松城と呼ばれた)を築いた。 この山城は天文二十三年(1554)の「三本松城の役」では大内氏・陶氏・益田氏その他の大軍に山麓を包囲されながらも、四月から八月までの100日余の籠城戦に耐えた。 吉見氏は関ヶ原合戦(1600)で毛利氏とともに西軍として戦い、敗れて萩へ退転した。翌年、坂崎出羽守が初代津和野藩主として入部し、現在の本城と織部丸の位置に高い石垣の近世山城を築いた。 ◆東門跡 ここは当城の東門、坂崎氏以後亀井氏の代には大手門となっていたところである。 ここをはいって右手に見る石垣が三段になっているが、これは三段櫓の跡、この三段櫓跡を右に見て上がった所が西門跡、その右手を上がって馬立跡、台所跡、海老櫓跡と続く。 また、ここをはいって左へ廻って行くところが腰曲輪で、これを行くと隠門に出る。 左手の上が天守台で、かつては三層の天守閣があった。天守台を右に見て上がった所が太鼓丸跡、その上を世間台といい、ここから城下が一望できる。 『津和野城跡案内板』より
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資料 |
私見 |
紅葉の中に映える石垣を期待して津和野城にやってきました。11月最終週の晩秋の石見です。朝から止まない雨が残念でしたが、なんと津和野につくと雨が嘘ののようにあがってしまいました。城山の中腹に設置されたリフト乗り場にいきましたが、休みなのか?と思ったほど閑散としており、またリフトも止まっていました。 客がこないから止めていた(^^;ということで無事リフトを動かしてもらい、津和野城を独占すべく頂上を目指しました。山上駅を降り、そのまま尾根上を進むのみですが途中に堀切が確認できます。これは現在の石垣を有する近世のものではなく、中世山城の名残なんでしょうね。その上には石垣が積み上げられているのがわかりました。思わず下から直登しようかとも思いましたが(笑)、大人しく散策ルートを進むことにします。 まずは出丸である「織部丸」です。見事に石垣で斜面を固められたもので、削平された地には礎石なのか石が一定間隔で並べられているのが見えます。少しピークは過ぎていますが紅葉も見事に色づいています。ここだけでも十分満足なのですがさらに見事な石垣を期待しながら本丸へと向かいます。 現在、整備中なのかところどころ臨時の足場が組まれていたりブルーシートがかけられている部分があります。一気に広がった視界に入ったのが石垣と紅葉だけじゃなかったのが実に残念でした。とはいえ右手に見える三段の石垣が荒々しくていいですね。三段櫓跡の石垣ですが、内側からだとわかりにくいですが外側からだと各段の石に違いを見ることができました。上にあがると西門跡、そして馬立から台所跡と続きます。場違いながら台所跡と聞いて「何DKの間取りなんだろ」と思ってしまいましたよ(^^;。でもこの石垣の多くは何度もの修築を繰り返してきたんですね。 左手側が本丸へと続きます。左右に腰曲輪がありますが共に美しい紅葉の絨毯がびっしり敷きつめられてあり、実に艶やかな様相を呈しています。そのまま天守台へあがらず、一旦右へそれ南門まで歩いてみました。そしておもむろに振り返ります。予想以上の高石垣がそこにありました!いいですねぇ、石垣好きでなくとも魅了してやまない名城です。 それは最頂部の三十間台跡にあがってみて一層強く感じました。完全に眼下を見下ろすことができる絶景です。但馬の竹田城に似た感覚を覚えますが、雨上がりの少々もやのかかった空も手伝ってのことでしょう。 また三十間台から太鼓丸へと下りる階段も面白い構造ですね。そこから腰曲輪を経て東門へと降りていけるようになっています。 津和野城は石垣の見事さに目を奪われてしまいますが、地形をうまく取り込んだ縄張りの妙も大変興味深い城跡なんだとよくわかりました。
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