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二俣城跡登城日:(2008.08.30) 所在地: 浜松市天竜区二俣町二俣 |
歴史 | ![]() ![]() 標高90メートルの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪・本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線上に配置されている。天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口を設け、北虎口は喰い違い虎口である。本丸西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積みである。本丸の南側には二之曲輪があり、枡形門跡がある。二之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間にはそれぞれ堀切がある。 ◆二俣城をめぐる攻防 永禄十一年(1568)十二月から天正三年(1575)十二月までの七年間、二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも、二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で、遠州平野の「扇の要」であったからである。 ![]() ![]() <元亀三年の攻防> 元亀三年(1572)十月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓を建て、釣瓶で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。 <天正三年の攻防> 天正三年(1575)五月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂・蜷腹・渡ヶ島に砦を築き二俣城を包囲した。武田軍は七か月で兵糧が底をつき城を明け渡した。そして、二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する天正十八年(1590)まで在城した。 この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。 『二俣城跡案内板』より
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資料 |
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私見 | ![]() ![]() 天竜川を右手に見降ろしながらあがっていくと左手に神社があり北曲輪跡だったところです。右に進むと喰い違い虎口の石垣が残っています。奥に天守台も視界に入ってきますので一気にテンションがあがりますね。ちなみにこの天守台は堀尾宗光の代に造られたとされています。広場となった本丸は一部土塁がめぐっており、二の丸へと続く虎口も見ごたえがあります。 ![]()
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