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勝間田城跡登城日:(2007.08.25) 所在地: 牧之原市勝田 |
歴史 |
勝間田氏は、この地方を本拠地とする豪族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府の御家人となり、その子孫の長清は「夫木和歌集」を編纂している。 元弘の乱(1331)には、河内(現在の大阪府)の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録にみえる。 室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱(1399)や永享の乱(1439)に活躍し、応仁の乱が起るや今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に文明八年(1476)ついに落城、一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられている。 応永年間に勝間田定長が築城したと推定されているこの城は、中世の代表的な山城で、牧の原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ、南東部の尾根には他の城跡に例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。 文明八年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見当たらないが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が認められる。 『勝間田城跡案内板』より
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資料 |
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私見 |
斜面一杯に広がるみかん畑を左右に見ながら勝間田城の城域へと入っていきます。ここからだと城の北端からの登城となります。いきなり土塁で囲まれた大きな郭が連続しているところに出たので「さてどう歩こうかな」と考えさせられますね。かなり広いです。農道を使って先に進んでいくと土塁が分断されているのもあり、この先はどんな状態なんだろうと不安もよぎります。その先は一転して左側の土器谷沢が迫っており、急に狭くなる構造になっています。また右側も堀切があり、ここから先は別の城のようになっていました。 勝間田城は南北に伸びる尾根上に展開された城で、左右の沢が迫ってきているような地形となっています。大きな郭と土塁囲いで形成された北側の城と、主郭を含む小さな郭と堀切で構成する南側の城となっていて実に興味深い城です。 左側に伸びる細尾根上には大小五重の堀切があるそうですね。ちょっとそこまでは数えられませんでしたが、本来土器沢谷側からの登城道を使っていたのでしょう。かなり堅牢な意図が今も感じられます。主郭は南北に細長い形状のもので二段構成になっていました。南側は大きな堀切があり、その先にも堀切を見下ろすように郭が配置されています。 南側の郭群は歩いていて楽しいですね。私の好みの山城です。南側の郭脇を抜けさらに南へと歩いていったのは「一騎駆け」と呼ばれる部分を目にしたかったからなんですがちょっとよく分かりませんでした。 時代の変遷を感じさせる構造を持つ勝間田城は散策していて非常に楽しい城でした。8月の暑い盛りに来てしまったのがもったいなかったですが、もっと下草がなくなった頃に来ると遺構がよく確認できてますます迫力が出そうですね。ここはお奨めです。
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