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興国寺城跡 登城日:(2000.08.27) 所在地: 沼津市 |
歴史 |
興国寺城は、戦国大名北条早雲(伊勢宗瑞)が初めて城主となった城であり、彼の旗揚げの城としても有名な城です。 早雲ははじめ伊勢新九郎長氏と称し、駿河守護今川義忠の側室であった妹を頼って今川家に身を寄せていましたが、義忠の急死後、今川家の相続争いをまとめた功績によりこの城を与えられ、その後伊豆国を治めていた掘越公方の内紛に乗じて足利茶々丸を滅ぼし、伊豆国の領主となって韮山城に移り、戦国大名へと成長しました。 その後、興国寺城は、駿河・甲斐・伊豆の境目に位置していたために、今川・武田・後北条氏の争奪戦の渦中に置かれ、城主が目まぐるしく替わりました。 天文年間に今川義元が小規模な構造の城であった興国寺城を普請し、城地を拡大しました。永禄年間には駿河に侵入した後北条氏の城となり、武田信玄の攻撃を退けました。 元亀年間の武田・後北条の同盟成立以降は武田方の城となり、武田一門穴山梅雪の持城となりました。天文十年(1582)に武田勝頼が滅亡した後、城主の曽根下野守正清が開城し、徳川方の城となり、家来の関東移封後は豊臣秀吉の武将、中村一氏の家臣河毛重次が城主となりました。 関が原の合戦後には、三河三奉行の一人で「どちへんなしの三郎兵衛」と称された、天野三郎兵衛康景が城主となりましたが、康景の逐電により廃城となりました。 興国寺城跡は愛鷹山の山裾が浮島沼に向かって張り出した低い尾根上に立地しており、山の根を通る根方道と浮島沼を横断して千本浜へ至る江道・竹田道との分岐点に当たり、かつては伊豆・甲斐を結ぶ交通の要衝であった。 城郭の遺構を良く残しているのは古城と呼ばれるこの地域で、浮島沼と谷戸に三方を囲まれ、深田足入と呼ばれる天然の泥田掘に護られていた。 古城は土塁と空掘によって区切られた本丸・二の丸・三の丸の三曲輪から成る主郭部と大空掘の北側に付属する外曲輪によって構成されている。 本丸北側土塁は一段高く築かれ、中央部の南面には石垣が積まれ、天守台と呼ばれる平坦部になっており、発掘調査によって2棟の建物壇が検出され、礎石が残されている。西端も狭い平坦部が設けられ、西櫓台と呼ばれている。 本丸は四方を土塁によって囲まれ、南は空掘で区切られていたが、現在南側土塁は崩され、空掘も埋められているが、ほぼ旧状をしのぶことができる。この部分に入り口が設けられており、土橋また木橋があったと推定される。 本丸の東南には土塁上に平坦部が設けられ、石火矢台と呼ばれていた。ここからは本丸掘に抜ける小道が残されている。 二の丸は土塁がほとんど崩されており、三の丸との境界がはっきりしないが、かつては土塁によって囲まれ、空掘によって区切られていた。南側土塁中央に入り口があり枡形が設けられていた。 三の丸は南部を県道が横断し、宅地となっているが、南・東の土塁は部分的に残され、ほぼその範囲を知ることができる。かつては東南隅に大手口の虎口が設けられており、西北隅にも入り口が設けられていた。 周囲の深田足入と呼ばれた泥田掘はほとんど埋められているが、ところどころに小さな池や泥として残され、その面影をしのぶことができる。 ◆天野三郎兵衛康景 天野三郎兵衛康景は元の名を景能といい、天文六年(1537)三河国に生まれ、徳川家康に仕えました。岡崎三奉行の一人に任ぜられ、「彼是偏無しの三郎兵衛」と評される公平な人物でした。後に家康の「康」字を拝領し康景と称し、慶長六年(1601)関が原の合戦後一万石を与えられ、興国寺城主となりました。 伝えられるところでは、慶長十二年(1607)、家来の足軽が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件が起きました。これが天領の農民であったことから、康景と代官井出志摩守正次の争いになりました。家康の側近本多上野介正純は康景に足軽を差し出すよう勧めましたが、康景は足軽をかばって城を棄て、行方をくらましてしまいました。このため康景は改易になり、興国寺城は廃城となりました。 その後康景は慶弔十八年(1613)、相模国沼田村(神奈川県南足柄市沼田)で没しました。墓は沼田の西念寺にあります。 『興国寺城跡案内板』より
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資料 |
年表:
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私見 |
北条早雲がはじめてもった城ということでぜひとも一目見たくてやってきました。遠くからでもよくわかる小高い小さな森が城跡です。その城跡へと向かう道の名も興国寺城通りだったか、非常にわかりやすいです。そのまま素直に城地を走っていると行き止まりの神社前に城の案内板がありました。そして北条早雲の石碑と天野三郎兵衛の石碑が仲良く並んでいます。両者のイメージがあまりにもかけ離れているので時代を隔てて同じ城を居城とした人間だとはちょっと想像しえないですね。石碑の廻りをL字型で高い土手のようなところを登るとその向こうは大きな空掘跡です。竹林のため藪蚊の襲撃を耐えうることができないだろうと、中にまでは踏み込めませんでしたが非常にいい状態で残っています。
そしてそのまままっすぐ数メートルほど歩いたところには4m四方程度でしょうか、天守台跡がありました。地面にはすっかり埋もれてはいますが、そこに建物があったことを示す礎石がいくつか見うけられます。また天守台の下には荒荒しい石積みがあることがわかりました。 天守台から町を眺めていますと、なんだか自分たちが立っている場所だけがまるで時間がとまってしまったかのような錯覚を感じます。すっかり崩れてしまってはいますがやはり城跡は歴史を感じさせてくれますね。
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