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小川城跡


登城日:(2006.11.11)
所在地: 焼津市西小川3〜6丁目付近
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史
小川城跡に立つ城址碑と案内板  焼津市西小川3〜6丁目付近は、古くから「法永長者屋敷跡」と言い伝えられてきました。
 「法永長者」とは、今川氏歴代の年代記「今川記」に出てくる「駿州山西の小河の法永」のことで、今川義忠(1436〜1476)が急死し、今川氏の相続争いが生じた時に、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)を介し、義忠の正妻北川殿と義忠との子竜王丸(後の今川氏親・1473〜1526)を保護した人物です。その後法永の子孫(長谷川氏)は今川氏の家臣となり、今川氏滅亡後は徳川氏に仕えたと伝えられています。
 昭和54年(1979)からの、小川地区遺跡群の発掘調査により、屋敷の周囲に堀をもつ本格的な中世屋敷跡が見つかりました。調査の結果、屋敷跡の周囲にも多くの建物跡が広がり、下層には古墳時代や平安時代の遺構もあることがわかりました。現在は遺跡全体を「小川城遺跡」と呼んでいます。
 屋敷の周囲には長大で複雑な堀を巡らしており、単なる屋敷ではなく、戦闘に対する防御機能を備えた城郭的構造になっています。素掘りの堀は幅が15〜16メートル、深さが1〜2.6メートルあります。また、この掘の内側や外側の一部にも、細い掘が巡っていて、堀の形態が変化していたことを知ることが出来ます。
 屋敷内部は、長辺150メートル、短辺90メートルで約13500平方メートルの広さががあり、掘(溝)によって、三つに区画され、母屋・倉庫などの建物が整然と配置されています。屋敷の周囲からも多数の建物跡や、井戸があり、屋敷からは国産の陶器や中国産の輸入陶磁器、漆器や曲物などの木製の生活用品、刀・釣針・古銭などの金属製品、斎串・呪符・人形・舟形というような呪術資料などが豊富に出土し、往時の繁栄がしのばれます。これらのことから、当地が物流の拠点としての小河湊を背景に、室町時代の大井川平野の中心地として賑わっていたことがうかがえます。
 この小川城遺跡の出土品は、焼津市歴史民俗資料館に展示・保管されています。

『小川城跡案内板』より

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資料
 

私見
周囲はすっかり住宅地となり、写真が撮りにくい小川城跡w  久々の駿河攻めはこの小川城からのスタートでした。masaさんのお導きでしたので場所を正確にお伝えできないのですが(^^;、周囲は住宅が立ち並んでしまっていましたので非常にわかりにくいと思います。
 城跡には城址碑と案内板があるだけなのですが、発掘調査当時の様子がわかる写真と城域が掲載されていましたのでなんとなく城跡を感じることができました。特に西側の田んぼの中央に掘が走っていたことがわかった気がするのですが、気のせいだけかもしれません。
 一見して単郭の居館跡かと思いましたが拡張された堀跡がかなりの防御性の高さを感じます。当時石脇城に居た北条早雲が同城ではなく、平地のこの城にかくまっただけのものはあったのでしょうね。
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