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勝浦城跡
登城日:(2003.05.10)
所在地: 勝浦市
 

【歴史】 | 【資料】 | 【私見】

歴史 公園となっている勝浦城  勝浦城は、天文十一年(1541)の頃、勝浦正木氏の初代、正木時忠が入城。それ以前は、真里谷武田氏の砦のようなものであったろうと言われています。その後、二代時通、三代頼忠の居城となります。しかし、天文十八年(1590)、豊臣秀吉により安房里見氏が領地の一部を没収されると、里見氏と親交のあった勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、安房に逃れます。なお、頼忠の娘は、後に徳川家康の側室(お万の方)となり、紀州徳川頼宣と水戸徳川頼房をもうけます。高名な水戸光圀(黄門)は、お万の方の孫にあたります。また、絶壁を布を伝わって下りたという「お万布ざらし」伝説は、神社裏の断崖絶壁が舞台です。

◆養珠院於萬の方
 天正五年(1577)四月四日、上総国勝浦城主正木左近大夫頼忠の娘として勝浦城(現在勝浦市浜勝浦八幡)に生まれる。本名を萬といった。
 同十八年(1590)六月、豊臣秀吉の小田原城攻略に関連し勝浦城は落城、当時十四歳の於萬は海路伊豆韮山へ逃れた。炎上する城を後に幼い弟を背おい母と四十メートルもある八幡岬の断崖に白布を垂らして海に下り小舟に乗って逃れたという話は、「お萬の布ざらし」として今尚言い伝えられている。
 その後、母が伊豆の土豪蔭山氏と再婚をした機会に、徳川家康に沼津本陣で見染められた於萬は、江戸城に召されて家康の側室となった。文禄二年(1593)十月二十二日、十七歳の時だったという。江戸城では於萬の方、蔭山殿と呼ばれた。慶長七年(1602)三月、京都伏見で長福丸−後の紀伊徳川家の祖頼宣−を生み、さらに翌八年には、駿河で徳千代−後の水戸徳川家の祖頼房−を生んだ。紀伊家、水戸家は共に徳川御三家として名高く、又水戸黄門の逸話で知られる水戸光圀は頼房の子であり於萬の方の孫にあたる。
 元和二年(1616)家康が死去した時四十歳の於萬は仏門の人となった。
 法華教に帰依した於萬は諸寺を建立したが八日市場市の飯高檜林堂もその一つである。
 生涯は仁慈貞潔のことば通りで、家康によく仕え、子弟の教育に尽くし、信仰の心篤く、病める者には医薬を恵み、貧しい者には依財を与え、刑罰にあう者には命乞いを行うなど数々の優れた業績を残したが、晩年は落飾して蓮華院と号し承応七年(1653)八月二十二日、享年七十七歳の生涯をとじた。

『勝浦城跡案内板』より

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資料  

私見 お万の方の像  勝浦城はまるで海に堅く守られているかのように半島の先端部につくられていました。八幡岬公園が城域内にありますので楽に散策することができるようになっています。駐車場から少し歩いていくと大きな平地があります。またさらにその先にも平地があり、それぞれかつて郭があったのでしょうね。現在はその一番先端部にはお万の方の像があるんですが、すごく質素な女性なんですよ。後に徳川御三家となるほどの息子を産み落としたお万の方としてのイメージとはずいぶんと違っているような気がしました。でもきっとここの像は布を垂らして難をのがれた当時の若かりし日のお万なんでしょうね。
 ほんとにそんなことやったのか?とても信じられないほど恐ろしい断崖が眼下に迫ってきているのを確認しましたが、現在は逃げるどころかその素晴らしいまでの海の景色を十分に堪能して帰ってきたのでした。
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